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勝連グスクの続き

気まぐれ沖縄通信 第95号(2025年1月

入場料を支払い見学した際は、私の望遠ズームでは近すぎて遠景が写せなかったので、その後何度か周辺から遠景を撮影しました。

海中道路撮影の帰り道にも勝連城跡前を通過したら、いい感じの黄昏だったので撮影しました。

出発点の標石から見上げる


中城城跡や座喜味城跡とは異なり、独立的な按司の拠点にふさわしい険しく堅牢な要塞的な印象のグスクです。

入口施設の赤瓦屋根から最初の階段を望む


最後の城主の阿麻和利は正史では反乱者にされていますけど、実際の当時は琉球国には独立的な按司が群雄割拠していたと思います

寧ろ、奄美との繋がりがあり、築城年代の一番古い勝連グスクこそ、老舗的な勢力で、沖縄のグスク時代の先駆け的な存在に思えます。

尚巴志にしろ、出自は肥後の説があります。

中山の察度王統(中国人集団(久米村)を抱え中国との朝貢交易をしていた)を簒奪したものと考えられています。

曲がりくねった階段

勝連半島の周辺にはグスク時代に先駆けて、高地性集落が出現します。
おそらく、奄美の交易者の現地駐在員的な人々かもと妄想してます。

その後、鎌倉幕府に圧迫された奄美喜界島の交易者が最初に拠点を構えた場所としては一番考えうると思います。

朝鮮半島や宋と博多、肥後と沖縄をつなぐ交易者はグスク時代の最初の移住集団として適任だと思います。

グスク時代の大型グスクには朝鮮半島系の職人が関わっている可能性があります。最初期の奄美の交易者達との結びつきに由来するのかもしれません


防御力の高そうな曲がりの階段

最初は南海物産の対価としての中国製陶磁器でしたが、元朝、明初期の時代には日本刀や硫黄、馬などの軍事物資と中国製陶磁器などの中継交易が大きな富を生み出すようになり、倭寇的な様々な交易者が次々と沖縄に交易拠点(グスク)を築くようになるのでしょう。

最上部には瓦葺の宝物倉庫があったらしい

元の染付やローマコインも出土するなど、独立的な按司の拠点として栄華を誇ったことが判っています。
「鎌倉のようだ」 と繁栄ぶりを称える古謡が残されています。

ちなみに、最後から2番目の城主はモチヅキなる名前でした。

逆光のグスクシルエット

もう一つ、勝手な妄想ですが

元の染付が出土するなど、元朝関係勢力との結びつきが原因なのか、明との朝貢貿易は行われず私貿易を展開していたのかもしれません。

元朝の遺民的勢力を抱えていた今帰仁グスクとともに首里勢力とは対抗していたのかもしれません。

正直にいえば首里城はあまりにも派手で、私の美意識に刺さらないけど、勝連グスクの質実剛健ぶりと廃墟感は好きです。

兵どもが夢の跡

を連想しました。

今帰仁グスクも見てみたいなあ


もしよければ過去の投稿もご覧ください。

歴史好きの方にはさらにおススメ、ただし、ただの歴史好きの無責任な論考と感想ですけど


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