コミュニケーションが必要になるとき
ある人に「最近みんなコミュニケーションコミュニケーションって言うけど、そんなに言うほど必要なものなの?」と言われた。
ハッとした。
今までなんとなく、コミュニケーションは必要だよ!と思っていたが、本来コミュニケーションやコミュニティとはそれらが目的ではなく、意思疎通の手段だ。
Enoniwaの営業資料を作っている時に、
「なぜ障害者コミュニケーションが必要なのか」
を説明するスライドを作らないといけないときに、私は手が止まってしまった。そもそもなんで必要なんだっけ…と自分がどこに立っているのか分からなくなる感覚があった。
障害者支援施設に通い、社会との接点の持つことが困難な人たちがどのようにして社会とのかかわりを持つことができるのか。私はこのテーマについてずっと考え続けている。(社会との接点という言葉もまた曖昧だ)
上にも書いたが、コミュニケーションが必要になる時とは、少なくとも人と人が何かしらのかたちで関わり、情報共有や意思疎通が必要になった時だと思っている。
そう考えると、まずは施設に通う障害者と社会(かなり漠然)がコミュニケーションが必要になる場面を考えないといけないのだが、そもそも彼らの課題として社会との接点の少なさが挙げられる。
例えば点字ブロックやスロープ、わかりやすい記号などはそれぞれ障害を持つ人たちが街の中で生活しやすいように設置されている。
私の弟は、そもそも街を一人で歩くことなどない。
つまり何が言いたいかというと、私は、障害者と具体的にどのような人を繋げたいのか自覚できておらず、ただ漠然と、障害者のことを知ってくれ~!共生社会にしようよ~!と叫んでいるに過ぎないということに気づいてしまい、焦りを感じている。
「そのコミュニティがあることで何が生まれているの?」
「そのコミュニケーションは何の意味があるの?」
わ、わからない、、、!(パンク)
コミュニケーションの壁の解消を目的にするなら、今必要とされている既存のコミュニティやコミュニケーションのかたちを理解するところから始めないといけないのかもしれないと思った。
ここ最近思ったことのメモ。