値段を基準にしないで、美を基準にする

 骨董とは、店で眺めている分には、真贋や、それが本当に自分に必要なものなのかという見極めがつかないことも多い。
それが不思議なもので、お金を払った瞬間に、そう、物理的にその骨董が店の所有から自分の所有に変わった瞬間に、その買い物が成功か失敗だったかが目の前の霧がさっと晴れるように明確に理解するのだ。
 その話を、骨董には全く興味のない女友達にしたら、それわかる~!不倫してた男が奥さんと別れて自分の男になった瞬間に、あっ、クズだわ!こいつ!って分かるもんねと言うので、ううん、全然話違うよ~と答えておいた。

 茶道部に入った中学生の頃から現在まで50年近く骨董を買い続けてきたが、骨董という古典にも流行り廃りがある。今から30年ぐらい前頃から、目白にあった古道具坂田が耳目を集めるようになり、それまでの一種高尚な骨董という分野に、古いガラクタだけれど見捨てがたきものを愛でるという流れが定着した。
 店主の坂田和實さんは、ご自身が、この店から品物が出た瞬間からそれはゴミと言われていたが、集まる客たちは勿論それは重々承知で、そのゴミに宿る坂田さんの美意識を安くはない金を払い買っていたのだ。
実際に、古道具坂田で骨董を買うと、その後、銀座や京橋や青山の、東京美術俱楽部の東美展に出展するような上手物を扱う骨董店で選ぶ品が変わり、ああ、私は坂田さんのセンスを買ったのだな、そのことにより私の目が上がったのだなと感じることがままあった。
 2年前に坂田さんが亡くなってからは、市場に坂田さんから買ったであろう品がよく流れて来たが、魔法が解けたようにそれらはただのガラクタにしか見えず、骨董の世界の不可思議さを目の当たりにした。
 その話を、前述の骨董に全く興味の無いくだんの女友達にしたら、分かる~!推し活してる子が結婚したらさあ、あんなに輝いてたのに急に冷めちゃって、何処が良かったんだろうって魔法解けちゃうもんね!というので、ううん、全然話違うよ~と答えておいた。

 長年の骨董歴の中で私が導き出した方程式が、「値段を基準にしないで、美を基準にして選ぶ」だ。
その骨董が目の前に現れた時、色々な条件、特に値段に惑わされず、自分の美意識に集中し、純粋に美しいか美しくないかのみで判断すると、後で後悔するような品を手にすることが随分と減った。
 そして、その頼みとする己の美意識をひたすら成熟洗練させるために、本を読み、美術館に足を運び、人と交わるのだ。
 その話を骨董に全く興味の無い女友達(三回目)にすると、わかる~!何でも鑑定団観てるとさ、借金のカタとか、歴史上の有名人のサインがあるとかさ、自分の好き嫌いで選んでないものほぼ100パー偽物だもんね!でもさ、自分がイイと思って手に入れたんなら偽物でもよくない?気に入ってんだから!と言うので、そうだね、それはすごく当たってるかもと答えておいた。

 そう、自分が好きなモノなら、誰が何と言おうと美しいのだ、誰にも文句は言わせない。それがいちばんしあわせな骨董道である。
それは物に限らず、人を選ぶときにも真実なのだろう。
「私が選んだ人は、私の大事な人。誰にも口出しされる謂れなし」

 何と簡単な真理なのだろうか。


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