やさしい地獄にいるみたい
5歳かそのころ、自分の部屋で寝ているときに夜中に急に目が覚め、なんだか寂しいような気持になり、「おかあさん…」と小さな声でつぶやいた。
「なあに?」
誰もいないはずの部屋の暗闇の中から、母がやさしく答えた。
その時の幼い私が感じたのは、安堵ではなく恐怖だった。
今から思えば、季節の変わり目の暑さ寒さなどで、掛け布団を変えたり窓の開け閉めで部屋にいたのだろうが、母といると感じるやさしい地獄を意識したのは、その時が始まりだった。
生まれてこの方、母がだらしない格好をしているのを見たことが無い。散らかった部屋さえ見たこともない。
急に遊びに来た友達が、一子ちゃんちっていっつもすっごい綺麗やね!と驚くぐらい綺麗だ。大人になってから、幼馴染に、一子の家に行くときは親に靴と靴下履き替えさせられてたよと言われたこともある。
綺麗好きには、片づけ好きと清潔好きに別れることがあるが、母は見事なまでにハイブリッドである。
やさしくきちんとした母は、手先もとても器用で、洋裁から編み物までプロ級の腕前である。高校生の頃、同級生が遊びに来ていたときに彼氏の為の編みかけのセーターを持ってきており、私と友達が外にお茶をしに1時間出かけている間に、置いて行ったそのセーターを全部編み直してしまっていたことがある。
母に言わせると、目は飛んでるし不揃いだし直してあげておいたわよと言うことだったが、友人にしてみれば彼氏の為に何日もかけて思いを込めて編んでいたセーターだった。
やさしくきちんとしているが、「そういう事じゃないんだよ」といいたくなる、人の心に疎い一面がある人である。
ある日、母の編んだカーディガンを着て小学校に行ったら、皆が、すごく素敵、一子ちゃんのママはいつも可愛らしいの作ってくれて羨ましいわ!私のも頼んでもいい?と賞賛する中で、一人の女の子が、私の背の襟をぐっと強く引っ張ったことがあった。
それまでの短い人生ながらそんな乱暴な行為を受けたことが無かったのでずっと心に引っかかっていたが、その意味が分かったのは大人になってからで、ふと、あの女の子は、私のカーディガンが既製品で襟の内側にタグが付いてないか確かめたのだと気づいた。
小学生低学年でよくそんな知恵があったなと思うが、お友達たちから賞賛と嫉妬を受けるぐらいに母の手作りの服は素敵だったことは間違いない。
私も誇らしく思っていた。
そして、そのステキな手作りの服に合わせて自分もステキな女の子でいなくてはいけないのだという意識も芽生えていた。
母と私は見かけが良く似ている。背が高く痩せている。
確かに見かけは同じ毬に見えるが、母は弾まない毬であり私は弾む毬である。
母の毬は弾まないというよりも、弾むことを意志の力で抑え、みだりにはしゃいだり感情を表に出すことを嫌い、酒を飲める体質であるが酒に酔った姿が嫌いで、酒を飲んだ私に対する口癖は「お母さんは、今までの人生で飲んだことがあるお酒は全部でおちょこ一杯ぐらいよ」である。
弾んでしまう私は、その場が盛り上がればいい、楽しければいいと行き当たりばったりの何処へ転んでいくのか分からない毬である。
弾む娘にとり、弾まない毬を疎ましく思うことが多かった。
夫が亡くなった後の二年間の冷たく暗い井戸の底生活のことは幾度も書いているが、腹を痛めて産んだ我が子の危機を本能的に察知した高齢の母が東京へ急に来たことがある。
人生を終わらせようと、首を括る準備を終えた頃の事だった。
母は、私を見るなり、太ったわね…お酒なのは分かってる、電話で話しているときはいつも氷の音がカランコロンしてました…と小言を言いながら乱れた部屋を猛烈に片づけ始め、私の入院手続きを始めた。
私は、病み始めてからずっと「混乱している」と言い続けていた。
そう、今でもはっきりと覚えている。あの頃の私は、心も生活も混乱し息をするのさえしんどかった。
「あなたが夢中でしていたゲームあったでしょう?色々な形のブロックが次々落ちてくるゲーム。きちんとした形のところに収めればちゃんと収まって下から消えていくのよ。つらい経験も同じ。ちゃんとした生活をしていれば次々落ちてくるブロックを下から順番に処理することが出来るの。」
母はそう言いながら、掃除をする手を休めない。
ゴミ袋に次々と不要なものを放り込みながら、「このゴミ袋も同じ。クシャクシャに丸めていい加減に入れてると嵩張ってすぐに一杯になるでしょ。だけどゴミを畳んで整理しながら入れると思っているよりも随分沢山入ります。心も一緒よ。」
入院した私の見舞いに来た母のスマホの待ち受けが変わっていた。
母が、両国国技館の前で、お相撲さんとツーショットでほほ笑んでいる。
コロナの真っ最中だったので一日15分しか面会出来ず、テレビもない部屋を掃除し尽くし退屈した相撲好きの母は、「あっ、浅草と言えば両国が近いはず。散歩がてら行ってみよう!」と思いつき、しかも関取と一緒に誰かに写真まで撮ってもらっている。
娘は、入院してるのに…
母は、友だちの編みかけのセーターを勝手に編み直したごとく、ぐちゃぐちゃになって混乱していた私の人生の編み目もさっさと直して退院した私を連れて一週間で帰った。
実家へ帰る荷造りをしながら、あら、いいロープあるじゃない!と首を括るために用意していた例の縄で段ボールをしっかり固定する母を見て、久々に心の底から爆笑した。
私の命を絶つはずだった縄は、本来のあるべき姿として存在していた。
弾まない毬が、首を括る娘を阻止するべく母の本能として、勢いよく弾んで浅草まで来てくれたのだ。
そしてその縄まで無自覚にきちんと回収して帰るのだ、母という人は。
ありがとう、お母さん。
そして、やさしい地獄は続く。