待ちに待った電話をワンコールで切った日
若いころ、好きで好きで仕方なかった人がいた。
その人は、私よりも3歳若い男性で、遊び人だった。
その頃にスマホなどない。連絡の方法は家電だけだった。私が出かけている間に、その人から会いたいと電話があったらどうしよう…
電話をかけてきそうな時間帯は、なるべく家から出ないで、本を読んだり、映画を観たりしてその人からの電話を待った。
その人からの電話番号が表示されたときの嬉しさといったら!
でも、あなたからの電話を待ってましたと思われるのが嫌で、5コールぐらいわざとらしく待った後に、なあに?といかにもそっけなく電話に出た。
中島みゆきさんのとても好きな「朝焼け」という曲がある。
あの人は、今頃は例の人と二人…
その歌詞通り、私と違う誰かと一緒に居るのなら、あなたの不幸せを願う。
しかしながら、他人から見たら、年下の男性を適当にあしらっている女性に見えていたと思う。
本心は、日々の生活がくらくらするぐらいその人に恋をしていた。
ある日も、数日ぶりに彼からの電話がかかって来た。
でも、恋心が、突然ぷつンと私の中ではじけた。あまりに熱い心で長く待ち過ぎたのかもしれない
もういいや…。
あれだけ待ち続けていた電話の受話器をワンコールで一回持ち上げそのまま降ろし電話を切った。ベッド際に置いてあった電話のコードを引き抜き、そのまま眠りに落ちた。
それから彼から何度か電話があったが出なかった。
突然、私の恋心は消えた。
というよりも、プライドで断ち切った。一切、私から連絡は取らなかった。
バーで一緒になることがあっても、レストランで隣の席なっても、あら、こんにちはお久しぶりとお互いに新しいパートナーを連れて挨拶をした。
でも、二人にしかわからない視線に熱があった。
何だったんだろう、あの燃えるような恋心はと不思議に思うくらい冷めていると思いたい自分がいたが、冷めた振りが上手になっただけだった。
それから数年後、たまたまバーで数席隣になった後、その時も挨拶で済ませた後、見知らぬ番号から電話があった。
僕だよ、さっき会ったね、ずっと変わらないね、今から会おうよ。
どうやって私の番号知ったの?と聞いたら、あなたの友達に聞いたら直ぐに教えてくれたよという。
元気そうだったね。
うん、あなたもね。
さっきのバーにまだいるよ。戻ってきてよ…。
とても甘美な誘いだった。
そのバーに戻るのは容易かったけれど、結局戻らなかった。
なぜなら、その人のことがまだ好きなのだと確信したから。その夜は、その人の嫌いなところをこれでもかと数え上げた。
葉巻を吸うには若すぎて似合っていない。
その仕立てたスーツも、童顔のあなたには不似合いだ。
あなたの、ちょっと高い声が苦手、私は大人の低い声が好き。
連れていた女性、女の子じゃない、どうぞ若い娘と仲良くね。
呪文みたいに繰り返さなければ、彼のところに戻ってしまいそうだった。
彼から掛かってきた番号を、直ぐに消去した。
そうしなければ、いつかその番号にかけてしまう。
意志の弱い私ならやりかねないと分かっていた。
一度だけ、友人たちと飲んでいる席で事情を知らない人が、彼に来ないかと電話したことがある。
来るか来ないか。
私はそのマッチポイントに勝った。
ボールは向こうのネットに落ちた。
彼はその電話に出なかった。
その後、私が帰宅した後、折り返し電話があり皆が合流したのはその後だった。
その後、主人と出会い、人を深く、それは深く愛するという意味を知った。
あの時、電話に出てくれなくてありがとう。
私はそれで幸せになれたよ。
その後、一度だけ微かに見覚えのある電話番号から電話が掛かって来たが、以前のようにワンコールだけ出て直ぐに切った。
それが、私たちは終わったのよというメッセージだった。
彼からの電話は、それから一度もない。
ありがとう、別れてくれて。