一子、YAZAWAになる

「俺はいいけどYAZAWAが何て言うかな?」

矢沢永吉さんの名言である。

夫が亡くなり、とても深い、とても暗い井戸の底で暮らして二年が過ぎ、もうこれからもずっとそこに居続けるのではないかと思っていた私がふと気が付くと、いつの間にか復活していて、真夏の8月の最高に暑い日の陽光の下、ホテルのプールサイドで若いツバメにジンソニックのトニックウォーターが甘すぎると文句を言っていた。
ツバメ君が、ジンリッキーにする?と上目遣いで尋ねてくる。

今年の夏は、毎日そんな風に過ごしていた。

人生の半分ぐらいをバーのカウンターで過ごしてきた私にとって、ジンソニックのトニックウォーターが甘すぎるなんて耐えがたい事である。
それでも、常識人の夫が生きていた時は、少々出来の悪いマティーニも、茶道をたしなむ私は吐き気をこらえて三口半で飲み干していた。

夫がバーであるべき態度をとても大切にする人だったから。

しかし、あの人は私を置いて行ってしまったので、仕方ない、私のやり方で行かせてもらう、ええ、そうですとも、好き勝手にやらせてもらうわ。

万事に置いて、復活した私はそのスタイルで生きている。

そう生きて行くうえで、私は魔法の言葉を手に入れた。

「私はいいのよ?うん、全然かまわない。でも主人が生きていたらたらなんていうかしら?」

完全にYAZAWAが入っている。

先日の株価の暴落で、損益を出した証券会社の担当者が謝罪に来た。私の好きな浅草の銘菓、徳太郎のきんつばを持って。
勿論、私にYAZAWAが降臨してきた。
「いいんですよ、それが投資ですから…
でも、Hさんが存命ならなんていうかしら?」

勿論、主人は人にイヤミ何て言わない人である。

主人が亡くなったその瞬間から、アメックスのブラックカードが使えなくなった。なので、バーでも当然カードが使えなくなった。
私のバッグはいつもとても小さいのが有名で、その小さなバッグに現金を入れて持ち歩くのは危険ですよと色々な人に注意され、行きつけのバーは帰ってから後に請求された金額を振り込んでいた。

ある、一店舗を除いては。

そのバーは付き合いが長く、それなりの金額を使っていた。家族ぐるみの付き合いもしていた。
その彼が、ツケで飲むの止めてもらっていいですか?とLINEを送り付けて来た。ツケで飲んだ覚えは全くないし、バーであれ、どこであれ、払うものはむしろ過分に払ってきた私は勿論ブチ切れていたが、丁度そのころから井戸の底に降り始めていた時期だったので、高々十数万の飲み代を振り込んで彼とは縁が切れた。

私にYAZAWAが降りて来たのは、その2年後である。

復活した私が、白金のバーで飲んでいると、キムタクなんかが出ちゃうようなドラマを書かれる知り合いの女性脚本家が話かけてこられた。
「あら、お久しぶり、最近、恵比寿のバーでお見掛けしないなあと思って彼に訊いたら、一子さんとケンカしちゃったんですよって言ってたけど、ご一緒しましょうよ、間を取り持ってあげr…」
「結構です!」
食い気味に答える私。

井戸の底生活中は、数えるほどしかネットを見たことがなかったので、それをきっかけに久しぶりに彼のツイッターを見てみたら、それは楽しそうな2年間を過ごしている。
田舎者がシャレオツな生活をエンジョイして、それを自慢気にツイートしている。
まあ、それはいい。
それが田舎者のヤンキー上がりの性だ。
面白くなって遡って見ていたら、私にツケで飲むの止めてもらえますかの日が出て来た。
そして、そこには、「人生で初めて分を弁えろと言われた 誘拐は難しくない」と書いてあった。

ハイ!YAZAWA降臨案件!

栃木だか茨城だかのヤンキー上がりのバーテンダーが、私を誘拐できるらしい。

次の日、たまたま弁護士の友人と飲む約束をしていたので、これ完全アウトだよね?と尋ねたら、アウトどころか捕まるね!という。その話を聞いていたバーテンダーが、誘拐とか云々よりも、一子さん、コロナ自粛中に闇営業してた彼のところによく飲みに行ってましたよね、今、コロナ助成金
ジャブジャブだった政府が回収に回っているので、闇営業を告発した方が痛手ですよと入れ知恵をしてきた。

ほほ~、誘拐示唆と闇営業で助成金不正受給か~それは香ばしいね~とほほ笑む私。

あの店、潰そうと思えばいつでも潰せるんだと思い、今は敢えて泳がせている。

訴状は、忘れた頃にやって来るのがいちばん堪えるというのは世の常だ。

どんぐりを後で食べようと地中に隠しておいたのを忘れ森が出来てしまうリスぐらいうっかりものの私ではあるが、今回はちゃんと回収しようと思っている。

YAZAWA ううん、違う、KAZUKOの楽しみが一つ増えた。

「もう、君は大人なんだから我慢しなさい」
亡くなった夫が良く言っていた。

大人にはなれていないが、YAZAWAにはなれた。



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