グエン君のこと

「朝、リセットする」そう決めている。

生まれつき心も体も健康な私でさえ、大切な人を喪うことでいとも容易く崩れ落ちてしまうことに自分自身が驚いた私は、2年近く続いた深い井戸の底生活に戻ることを恐れ、とにかく心身ともに丈夫でいることを心掛けている。
 
前日しんどくても、当日苦しくても、とにかくベッドに入り新しい朝を迎え、半ば強制的に心身をリセットすることを習慣としたら、驚くほど楽になった。
その新しい朝のスイッチを入れるのが、早朝の墨田川テラスウォーキングである。
1時間半かけて、1万歩以上、気分によっては2万歩近く歩くこともある。
前日、外食に行くとか飲みに行くなどの約束が無い日は、午後8時頃にはベッドに入ったりするので、ウォーキングを終えるのが午前5時過ぎだったりすることも多い。
珈琲好きの私は、ウォーキングの後、自宅のすぐ近くにあるコンビニでマシンで淹れるコーヒーとバナナと水を買うのが日課だ。

ある日、コンビニへ行くとバナナが無かった。
今日はバナナは無いですか?と尋ねると、すみません、今日は全部ありません、一週間に一回か二回、バナナ、無くなる日がありますと、若い男性の店員が片言の日本語で答えた。
その店員が、ベトナム人のグエン君だった。

毎朝、早い時間に行くと、大体グエン君がワンオペで店を切り盛りしており、深夜から早朝シフトの彼は、その後の時間帯の浅草の観光客でごった返す前の静けさを楽しんでいるかのように飄々とコンビニの仕事をこなしているのが印象的だった。

そこのコンビニは、オーナーが変わると外国人店員の国籍が一斉に全員変わる。ベトナム人の前は、パキスタン人だった。
勿論の事ながら、仕事に慣れている人もいれば研修生もいて、いつもしかめっ面で不機嫌そうな女の子から、もう何年も働き続けている年配の女性、入店した当初は黒髪だった真面目そうな青年が、ある日突然、髪が緑になったりして、店員と客として最小限度のやり取りしか交わさない関係性の中にもドラマがある。

ある日の朝、いつもの決まったコーヒ、バナナ、水という買い物ををしたら、明らかに会計が高かった。たまに、ヨーグルトや小さな甘いものを追加で買うこともあるので特に気に留めず、グエン君では無い別の店員からレシートを受け取った。いつもは、レジに置いてある小箱に直ぐにレシートは捨てるのだが、コーヒーの割引券が付いていたので持って帰り、帰宅後何気なく眺めていたらホットスナックと印字されていた。
私は、口から何を入れるかということに非常に敏感なので、コンビニのレジの横にあるホットスナックを買ったことは一度もない。
その話を友人にしたら、ジョギング帰り姿でいつもカードで支払い、レシートを確かめもせず持ち帰ることもない中年女性は、200円程度のホットスナックを上乗せしても気が付かないだろう、もし気が付いても、君の風貌から大事にする人ではないと判断されているんだろうなあと言われて、レシートは持ち帰ることにした方がいいよと忠告された。

そんなこともありつつ、私は相変わらずそのコンビニで毎朝買い物を続けていたが、いつの頃からかバナナが無い日がなくなっていることに気が付いた。
普段は、4.50本のバナナが専用の大きな台に積み上げられているのだが、消費期限があるのか仕入れの関係なのか一斉に撤去されている日があるはずなのに、いつ行っても大きな台の上に必ず一本か二本はぽつんと残っている。

その頃から、グエン君は、私が入店していつものファミマのメロディーが流れると、商品の整理をしていた手を止めてさっとレジに入り、いつも頼むコーヒーの種類とサイズのカップをお願いする前に用意してくれているようになった。

そんなこともあり、おはようございますだけではなく、短い会話を交わすようになり、ベトナムから来ていること、まだ、二十歳そこそこで日本語を学んでいることなどを、真面目を絵にかいたような小柄な坊主頭の彼が訥々と話してくれた。
 
ある朝、いつもより少し早い時間にコンビニへ行くと、グエン君がバナナを一本だけ持ってバックヤードから出て来て、大きな台にそっと置くのが目に入った。
そうだったんだ。
バナナが品切れになる日には、グエンくんが準備してくれていたんだ。

グエン君にとっては、毎朝墨田川テラスから来るであろうスポーツウェア姿の瓶底眼鏡をかけた背の高い中年女性に過ぎない私に、なぜそんなに親切にしてくれたのだろうか、今でも分からない。

ベトナム戦争の始まりと同時期に日本で生まれ、その悲惨な戦争を逐一新聞やニュースで見て育ち、ベトナム戦争についての本、映画や、写真集などに触れ、時には勉強会などにも顔を出していた私にとり、グエン君という存在がとても不思議な存在に思えるときがあった。
20年以上に渡る悲惨な戦争で、彼の祖父母や両親は何かしらの厳しい喪失の体験をしたであろうし、500万人の死者を出したことにより人口が激減し、南北統一後も国として機能するまでに苦しい時を経たベトナムから一人の男の子が日本の浅草のコンビニでバイトするまでにはどれだけの道程があったのだろうか。
沢田教一のピュリツァー賞受賞作となった「安全への逃避」の被写体の親子がグエン君の面影と重なるときもあった。

それから1月も経たないうちに、いつもの朝のレジで、国に帰りますとグエン君に告げられた。
驚いた私が、いつ帰るんですかと尋ねると、明日ですと答える。
あまりにも急なお別れの返答に、品物を受け取りながら、気を付けて帰ってくださいねとほほ笑むのが精いっぱいだった。

コンビニは通りを挟んで自宅マンションの目の前なので、帰宅してとりあえずバナナを食べながらコーヒーを飲み、シャワーを済ませ、コンタクトを入れ、軽く口紅をひいた。
ポチ袋あったかなと探すと、地味な色合いのポチ袋がかろうじて出てきたのでお金を包み、表にグエンさんへ、裏に美奈子と書いた。
30分後に再びコンビニへ行くと、店の奥で作業していたグエン君が驚いた顔で小走りで駆け寄って来た。
「日本の良い思い出になりますように」とだけ伝えポチ袋を渡すと、笑ったように泣いたようにクシャっと表情を崩し、潤んだ目の彼が小さな声で「ありがとうございます…」と答え終る前に、さよならが苦手な私は踵を返して店を出た。
コンビニを出た後、ガラス越しにちらっと見えたグエン君は、ずっと日本式のおじぎをしたまま深く頭を下げていた。

それからも、ほぼ毎朝墨田川テラスで爆走した後は、グエン君のいないコンビニへ通い、品切れの日に備え時々バナナを二本買い、夫のいない日常を暮らしている。そして、ときどきグエン君のことを思い出すたび、あの渋い色合いのポチ袋のことも思い出す。

亡くなった主人が、上野の東京国立博物館のミュージアムショップで買った酒井抱一の 夏秋草図屏風図の、日本の浅草で頑張ったベトナムの男の子に渡すにはあまりにも渋すぎる地味なポチ袋。

いやーねー、トシヨリ夫婦は!

ちょっくら銀座の鳩居堂へ、にぎにぎしい素敵なポチ袋を買いに行ってくるわ!





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