浅草観音裏の海

亡くなった夫が浅草にセカンドマンションを買い二人で浅草巡りをするようになったのが丁度20年前だった。
その頃の浅草は今のような大人気の観光地ではなく、雷門の周辺でさえ人がまばらで、スカイツリーは影も形もなく、東京の煌びやかさから取り残されたさびれた感じの残る昭和の街だった。
中心地でさえそうなのに、浅草寺を北に抜けた観音裏という、住所で言うと浅草三丁目四丁目は、君は一人であの辺をうろうろしちゃいけないよ、危ないからね、まあ、方向音痴の君は行き方も分からないだろうけどねと夫が注意を促すような土地柄であると認識されていたと思う。

それが今や、奥浅草などと持て囃され、実力もセンスも兼ね備えた野心家の若いオーナーたちが出店する洒落た飲食店、クローズドな雰囲気の一見さんお断りの怪しげな小さなスナックが連なる一角、昔からの蕎麦屋や寿司屋などの商店と住宅がモザイクのように混在し、地元のおばあちゃんが手押し車を押しながらよちよちと歩くそばを堅気じゃないその筋の男がすれ違う不思議な街になっている。

そんな観音裏で過ごすことが多くなったのは、去年の夏に久々に再会した男が住んでいるからである。
その男は、世界中の海をヨットレースで縦断してきたプロのヨットレーサーで還暦を過ぎたばかりである。

東北出身の彼は、幼いころからスポーツに秀でており、サッカーのユース日本代表に選ばれ推薦で有名私大に入学し、卒業後、ヨットの世界に足を踏み入れた。丁度その頃、ヨットレースの最高峰アメリカズカップに日本が初参戦することになり、そのニッポンチャレンジのヨットクルーを募集していたのだ。
募集要項は、スポーツ経験は必須だが種目は問わず、英語が堪能、身長183㎝以上など、サッカー選手として思うように活躍できず酒におぼれ無聊をかこつ彼にはもってこいの話だった。

私は、夫を亡くした喪失感から二年近くまともな生活が送れず色々な人たちと断絶していたが、去年の春ごろからどうにか立ち直ってきたところを狙われて、浅草の老人ストーカーに付きまとわれるようになった。
今から思えば、夫が生きていたころから私に異常な興味を示し、周囲の人にはあの人には気を付けた方がいいと忠告されていたが特別気にするほどの脅威には感じず放置していたのだが、キチガイじみたその老人の行動が目に余るようになり、警察と周囲の人に相談した。
相談した人物の一人が、観音裏の男だった。

二年ぶりに会った彼は、ヨットの世界では食べて行けず、ダブルワークで食いつなぐ、陸の男になっていた。
常に陽にさらされ続ける海の生活で浅黒く日焼けしていた逞しい彼は、漂白されたように少しだけ色白になり、慣れないデスクワークに疲れていたが、そのくたびれ方が妙に色っぽく相変わらず女にもてるのだろうなというのが久々に会った印象だった。

そのストーカーの名前を出すと、まあ、察しはつくよとあまり驚かなかった。
「オレ、ヨットから足洗って、一年京都に住んでタクシー運転手していたんだけど、Sさんに急に呼び出されたバーでずっと一子さんのこと3時間話し続けるの聞かされたよ。異常だった。京都の観光の話なんか一切しなくてさ…」というので、「一体、あの人、私の何の話をすることがあるの?大した知り合いでもないのに?」と尋ねると「あなたのやってたツイッターを全部チェックし、一人であれこれ気を揉んで、忠告したけど無視されたと激怒してたよ」と背筋がぞくりとするような気持ち悪いことをさらりと告げられた。
ツイッター上でやり取りしたことなど、私の記憶の片隅にもない。
そのくらい、私にとってはどうでもいい顔見知り程度の老人だった。
呆れた私がどうして教えてくれなかったのと尋ねたら、あの人、浅草でも自分は顔役の一人だと思い込んでいるけど、どうでもいいことでクレームをつけネチネチとしつこいから、浅草の人は関わらないように受け流しているんだよ。あの粘着質の性格は普通じゃない。一子さんは浅草の人間じゃないから知らなかったんだね…
聞けば聞くほど、老ストーカーの異常性が際立つ。

その相談をきっかけに、私たちはよく食事や飲みに行くようになり、付き合い始めるのにそう時間はかからなかった。

キスは全ての始まりであり、その始まりが下手な男は体を重ねても下手というライフハックをわたしは持っている。

観音裏の彼の小さなアパートで初めてキスをしたとき、その心地よさに陶然となりながらも、こんなキスが出来るようになるまでに何人の女と関係を持ってきたのかとしびれるような快感の片隅でちらりとよぎるものがあった。

彼の部屋は、40年近く過ごしてきた海のことに関するもので溢れ、本を何冊か出版している物書きでもあるので本に囲まれ、食べることが好きな彼は、ヨットで訪れた世界各地のおいしい料理をコンパクトなキッチンで手際よく作ってくれた。
観音裏の小さな部屋は、居心地の良いヨットのキャビンの様で、濃紺のファブリックのベッドで彼と体を寄せ合っていると、広大な海の上に二人だけ取り残されて漂っているような、甘く寂しい気分になることがしばしばあった。

そんな暮らしが続き、どちらからともなく一緒になろうかという話がよく口の端に上るようになり、それまでの会話の大半を占めていた過去の思い出話が、具体的な未来の話に移って行った。
彼も私も親が高齢なので、今年一年は精いっぱい親孝行しよう、そして来年は一年間かけて世界を旅しようと決めた後は、夢物語が現実的なものになった。
海の部屋で抱き合った後、彼の淹れた珈琲を飲みながらあれこれ未だ先の旅を語り合うのが習慣になった。
「スペイン行きたいね、バルセロナ、マドリード、マラガ。サンティアゴデコンポステーラへの巡礼の道も歩いてみたいね。
バスクも良いよね、日はまた昇るの逆ルートでパリに入るとかね!
ブエノスアイレスもいいよ、NYも行きたいね。
ニュージーランドでヨット遊びもいいね。」
「えっ、私もヨット乗れるの?」
「乗れるよ!ニュージーランドならヨットの古い友だちが沢山いるしね。南フランスにも古い友だちがいる。モンペリエの近くのバラバス。そこでも乗ろうよ」
「デッキシューズ買わなきゃ」
「裸足のマダムも良いけどなあ…」
彼が再度行きたがるところ、初めて行きたいところは、彼の人生で大きなウェイトを占めるサッカーとヨットにまつわる場所が多い。

ある日、ふと単純な疑問が湧き尋ねてみた。
「今まで、女の人と長い旅したことあるの?」
「長い旅はないね、旅は一人がほとんどだったからな…ヨットの上は男しかいなかったし…」そう答えしばらく考えた後に言い募った。
「ああ…女との長い旅一回したな。結婚生活…約5年」
彼の若かったころの苦い結婚生活の話はなんとなく聞いたことがあった。
「5年間、いい時とそうじゃない時の繰り返し?私は、主人との結婚、ずうっと幸せだったよ」
「楽しかった記憶…少ないかもしれない。35と28だったけど幼過ぎたね。不安定な収入と不安定な精神状態だったしね…してはいけない結婚だった。相手が再婚して子どもが出来たことを聞くまでは、かなり落ち込みが続いたね。」
その結婚が破綻したころの彼は、有名ビール会社のCMにプロヨットレーサーとして出演していたし、輝くような美丈夫で名を馳せていたので、そこまで結婚生活の失敗にダメージを受けていたとは初耳だった。

初めて二人だけで過ごす年末年始の計画を立てていた矢先のクリスマスのディナーを食べている最中に、とても近しい私の親族が急性膵炎で命が危ないと突然連絡が入った。取るものも取らず新幹線に飛び乗ったが間に合わず、その親類は亡くなってしまった。
呆然とする年老いた母が心配で、私は3週間以上実家にとどまった。

浅草に帰ったその日の夜に、彼と観音裏のバーで待ち合わせした。
その古い民家を改築したバーは浅草の人気店で、彼と店主のバーテンダーは30年来の友人であり、店名も彼が名付けたほどだ。
陸に上がった彼が観音裏に住み始めた大きな理由の一つでもある。
勿論、私よりも彼のことを深く理解しており、一緒に暮らし始めたわたしたちのことを何も言わずに見守っていた。
いつも折り目正しい白のバーコートを着込み、バーカウンターで見聞きしたことは一切外部に漏らさないタイプの、穏やかだけれど自分の流儀は絶対に曲げない信頼のおけるバーテンダーだ。
わたしと彼が久しぶりに顔を合わせた嬉しさを隠しきれないさまを眺めながら相好を崩し、酒を作りながら会話に加わり、他に客もいない口開けのバーを楽しんでいたとき、新しく入って来た若い女性客の姿を見て表情を一瞬で無くした。そして、「すみません、今夜は予約で埋まっているので…」と明らかな嘘をついた。
女は私の男をじっと見つめ、彼は目の前のカクテルから目をそらさず不自然なまでにその女を振り返らない。
全てを一瞬で察したわたしは、「丁度帰るところなので、こちらの席どうぞ」と女に席を促し、一回も振り返らず店を出たのでその後どうなったのかは分からない。

自分の部屋に帰って半刻も経たないうちに、チャイムが鳴る。
だが、私はソファから立ち上がることもなくオーディオの音量を上げた。
彼はこの部屋の鍵を持っている。
私から部屋に招き入れることは無いが、彼が入って来るかどうかは彼の自由だ。
音量を上げたオペラのアリアに、再度チャイムの音がかすかに混じる。

その時のわたしは、美しく散乱した観音裏の海の部屋を既に懐かしく思い続けていた。

多分、あの海に戻ることはもうないのだろう。
















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