人と人の旬
とても仲良くしている人が、フェイドアウトしていくように疎遠になることがある。そして、3年後に、3日間会ってなかっただけみたいな顔をしてまた連絡を取り合い、一緒に温泉に行く約束をしたりする。
人間関係には旬があると、歳を重ね経験を重ねて分かっているので、人が私から離れて行く時も、私が人から離れるときも、未練は随分と薄くなった。
若いころは、何か相手の気に障ることをしたのかなと心配することもあったけれど、今は無い。その人との旬が過ぎただけのことだ。
もちろん、ずっと連絡を取り合う友人や親族はいる。
だが、それがある日何かの理由で途絶えたとしても、特別気にすることはないと思っている。
友人の女性が、結婚したいと思っていた相手に、タツノオトシゴの生態の話を延々と語るのを見て、止めてー!と心の中で叫んだことがある。
タツノオトシゴは、生涯一夫一婦制で、お腹が裂けて死にそうになっていても一生離れることはないと夫婦の絆について語る彼女。
3人で食事した後、彼女がトイレに行った隙に、重いんだよね…と彼がつぶやいた。私も、ちょっと彼女突っ走っていたねと答えるしかなかった。
勿論、結婚不成立である。
あの時、もっとライトな感じで彼と接していたら、結婚に至っていたかもしれない。
夫婦関係にも、春夏秋冬のような旬があるのだから。
私は、伊丹十三さんのファンなのだが、彼は、季節が変わると洋服を着替えるように、人間関係を変える人だったと、彼と近しかった人から聞いたことがある。
だが、あれだけの才能のある人なら、最高の作品を作るために自分の仕事に合わせて人を切ることも繋がることもあったのだろうと意外には思わなかった。
そして、彼のエッセイを読み映画を観ると、驚くべき観察眼の持ち主である。それだけ鋭い観察眼の持ち主ならば、他人の良いところも見えるだろうが無様なところもそれ以上に見えるだろう。
もちろん、人と人との旬があることも分かっていただろうと思う。
ある時期ある人と、怒涛の如く来る日も来る日も電話で話し続けたことがある。
年配の男性で、色々な冒険譚を持ち、音楽、文学、映画のことから、鰹の藁焼きの秘訣まで、4,5時間話し続けた。
何よりも死生観が非常に近く、お互いに大事な家族を亡くした悲しみを紛らわせるように、しゃべり続けた。
だが、ある日突然、電話をしあうことがなくなった。
飽きたというのとも違う、話すべきことは全て話したよねという感じで、その電話の習慣が終わった。
彼との旬が終わっただけなので、特別寂しいとも思わない。
いずれまた旬が来たら、またおしゃべりが始まるだろうという確信があるから。
他人の人生に執着する者は、人間関係の旬というものが分かっていない。
あなたは、私の人生のただの通りすがりであり、旬を迎えるほどの関係ですらないということに気づいていいない。
精神が幼稚な人にありがちな傾向である。
愛があれば人と人は繋がったり離れたりするけれど、打算や執着や憎しみの人とは、二度と繋がることはない。
人と人との旬を保てるのは、お互いに愛すべき存在の者同士の関係なのだという事実を書いておく。