誰でもいいから救ってくれよ

2万字の短編小説。
書いたのが1年以上前なので、当時のことを思い出せもしない。だがなんとなく「怒っていた」ような、「救いを求めていたような」気がしている。シンデレラコンプレックスと言ってしまえば、それだけなのだが。

 僕は虐められている。虐めといっても大したことは無い。僕の話や挨拶をわざとらしく無視されるとか、僕が授業で当てられた時に嫌な沈黙が流れてその後クスクス笑われるとかとか、そんな感じだ。トイレで水を掛けられたことは無いし、机にいたずら書きされたことも無い。物だってちゃんとある。シャー芯の一本さえ消えたことは無いのだ。大した虐めじゃない。
 僕は大して気にしちゃいない。何しろ、僕が虐められるのは当然のことだ。
 青白い肌に、骨が浮いたなまっちょろい体つき。筋肉が無くて葦みたくひょろっとしていて体幹がぶれている。ちょっと寄り掛かられるだけでバランスを崩すくせに、背丈はこれまでずっと並び順で最後尾だ。高身長が映えるのは、顔が良い奴に限るのだと僕は知っている。
 僕が虐められるのは重力と同じくらい当たり前だ。だから気にしちゃいない。僕だって、もし僕が僕じゃなくて、周りに僕みたいなのが居たら虐めたかもしれない。
 それに虐めって言ってもさっき言ったみたいなのしか無いから、別に気にしなければどうってことない。これがナイフで刺してくるとかなら僕だって全力で逃げ回ったかもしれないが、そうじゃないのだ。
 僕のクラスメイトは僕を虐めることで一種の快楽を得ているに違いないが、その快楽の低俗さと言ったら、わざわざ僕が言語化してやる必要も無かろう。奴らは見たってなんの益にもならないユーチューバーの動画をとりあえず垂れ流しにしたり、電車に乗っている時にとりあえずTwitterやInstagramを開くのと同じことを僕にしているのだ。つまり、奴らは退屈な生から目を背けたくて必死になっている。もし奴らに高尚な精神なんぞがあれば、自らの魂の源泉から退屈を潰せるだけの快を引っ張り出せただろうが、生憎と奴らは空っぽだ。思索も想像もできないほどに、安易な娯楽に脳がヒタヒタになってしまった。脳内麻薬に負けたゾンビである。そこから脱却しようにも、奴らの脳みそは既に垂れ流しにするだけのある種の知識、刺激しか受け付けなくなっている。ああ憐れ、奴らはいずれ僕を虐めるのにも飽きるだろうが、それでいてやめられないだろう。なんたって麻薬患者だ。
 そんな益体の無いことを考えながら、僕は家に着いた。僕は毎日学校から帰宅するたび、まるでゴミのトンネルに恐る恐る足を進めるような感覚に陥る。深海に落ちるように光が乏しくなっていき、遂には真っ暗闇に陥る世界だ。そのくせ深海のように澄み切っているわけじゃなく、静けさに満ちているわけでも無く、つまりは深海の嫌なところだけを抽出したような場所だ。つまりは嫌なところだ。嫌なところが我が家だ。
 帰ってすぐに、母親にこんなことを言われた。
「直治、宿題やった? 提出物だけはちゃんとしなさいよ」
 一応言うが、僕は提出物を出さなかったことなど無いし、宿題に至っては休み時間に終わらせている。暇だから。
 それに、これは暇の副産物でしかなく僕がすごいわけでは無いが、僕は成績で言ったら上の方だ。二百人中の十位以内くらいには入っている。それでも母親は満足しない。自分が努力したわけでも無いくせに、僕にはいっぱしの努力と、いつもいつも出した結果以上の〝次〟を期待する。母親の口癖は「将来のために」であるが、その母親自身が将来のために何か良いことをしたのか、それが実ったかは疑問だ。もし母親に将来設計がきちんとできていれば、僕は今頃生まれてすらいないだろう。僕は母親の将来設計のミスから生まれた。その僕に将来を期待するなんて、我が母ながら愚かしくて見ていられない。どれだけ口で良いことを言おうと、その人の本性はその人の行いが物語る。つまりは人生だ。
 僕は脳裏に過ったこんなことに蓋をして、とりあえず頷いておいた。
 僕は醤油染みの付いた汚いテーブルに着く。それに顔を顰めて濡れた布巾を流しからとって来る。将来どころか目の前すら覚束ない。我が家はいつだって要るんだか要らないんだか判然としない物に溢れていて、貧乏人のゴミ屋敷だ。安いからと言って食べもしない何かを大量購入しては冷蔵庫の奥に押しやり腐らせる。百円ショップで飾る場所すら無いのに役にも立たないインテリアを買う。大量生産大量消費ならぬ大量廃棄だ。いくらあったって足りない金を更にドブに捨てている。それを自分でわかっていながら笑い飛ばして、し続けるのだから僕は笑えなかった。こんなのが僕の親か。
 僕は何回も解いたワークをもう一度解き始めた。もはや問題文の位置を見ただけで答えが頭に浮かぶ有様だが、それ以外にして良いことが見つからない。
 中身の無い反復練習は、必要の無い思考を滑動させるにはもってこいのものだ。僕はまた、益体の無いことを考え始めた。
 僕は五人兄弟だ。兄弟の中の真ん中っ子である。僕はこの事実に、度々吐き気を催すほど嫌悪する。
 最近気が付いたことだが、貧乏人の子沢山ほどこの世で愚かしいことは無い。自らの将来設計の甘さと貞操観念の低さを世間様に明け透けに公表して、しかも恥すら覚えないと来ているのだから。大通りを裸で歩くのと同じだ。厚顔無恥は見ているだけで辛いものだが、それがうちの母親と来ている。最悪だ。そして、その責任はいつだって子供に降りかかる。
 僕の人生は、僕が生まれる前から終わっていた。
 親がこれなのだから、僕がこれなのは仕方が無い。何しろ愚鈍の遺伝子を受け継いだ愚鈍だ。
 兄弟の中で、母の愚鈍を最も受け継いだのが一番上の姉である。津島家の長女はいつもヘラヘラ愛想笑いを浮かべて、何も言われても肯定以外を示さないが、そのくせ裏では文句と陰口を言う。
 だがこれは仕方が無い。一番最初に生まれたということは、一番長くあの許しがたい愚鈍と接し続けてきたということだ。生涯をかけて毒を吸い込んできたということだ。ならばその身が、毒に冒されているのは仕方が無いと言える。姉は僕以上に惨めで、時たま死にたそうな目で窓の外を見ている。しかし僕がそれに気づくと気丈を装って笑ってみせる。
 僕の姉は愚鈍だし、母に似て碌な人生を歩まないだろうが、それでも僕はこの悪徳の家族の中じゃ最も姉が好きだった。何故って、姉は自分が愚鈍であることを理解している。自分をわかっている者は何より賢いし、見ていて清々しい。
 ややあって、僕は禄でもない思索にも、やったフリの勉強にも飽きてしまった。
 これは愚鈍の特性の一つなんだけれど、許しがたい愚鈍ほど〝賢そうに見えるムーブ〟が好きだ。読書はその一つである。愚鈍ほど読みもしないのに本(大抵が自己啓発)を買って、そして棚に置いたままにする。棚ならまだマシだ。うちの家族なら鍋敷きにしてしまう。そして汚れたそれを名残惜しそうに見つめるのだ。汚したのはお前だろうに。
 僕はカバンから本を取り出した。「人間失格」だ。僕は太宰が大好きなのだ。デカダンは好い。まるで汚れた世界を浄化する光のようにも感じる。清らかなる告発だ。
 僕は穢れた世界に曙光を観る。

 それは中学二年生が始まって三日目のことだ。
 僕は、近ごろの妙な生活を妙に思っていた。妙が妙、何が妙って、虐める奴らが居ないのである。虐めと言ったって大したことが無かったけれど、それすらも無い。残滓すら消え失せて、僕は全くの健康的な生活を歩んでいた。とはいえ、まだ三日目だが。
 原因はクラス替えかもしれない。七割ほどのメンバーは同じなのだけれど、馬が居なければ馬車は動かない。もしや馬が違うクラスに行ったのか? 僕は人の顔も名前も性格も覚えるのが苦手だから、誰が虐めの中心人物だったのか点で知らない。
 放課後、まだ日の高い喧噪の教室で、僕なんかはとっととずらかろうと指定カバンに教科書を詰めている時だった。
「やあ、ちょっといいかな」
 やあなんて声を掛けてくる奴は大概禄でもない。背中から声を掛けてきた不審人物を、僕は警戒心をもって振り向く。声だけじゃ人を判別できないのだ。
 果たして、そこに居たのは今日決まったばかりの学級委員長である。僕だって学級委員長の顔ぐらいは覚えている。利発そうな瞳をした男子学生。如何にも優等生で、ワークを飽きるほどやっている僕よりも成績が上だった。何しろ学年一位である、万年。名前は……何だったろうか?
「上原子日向だよ」
「あ、どうも……」
 反射で礼を返す僕に、礼儀正しい風貌の上原子日向とやらが手を差し出してくる。
「……え、なに」
「握手をしよう」
 日向は当然のように言った。
「え、なんで」
「なんでって?」
「いや、なんで握手」
 僕には点で状況を掴めなかった。ちょっと前まで疫病神とばかりに触れることすら厭われていた僕が、これまで小学生でよくあるばい菌扱いを受けてきた僕が……なぜ?
 ガヤガヤ騒がしい周囲に、訝し気に僕たちを観察するクラスメイトがちらほら居る。意味がわからないのは僕だけじゃなかったようだ。つまり、おかしいのは眼前の真面目くんの方。
 そして、日向は素っ頓狂なことを言う。
「友達になろう」
「……は、」

 僕は恐怖のあまり逃げ帰った。
 なんだ。なんなんだ、あいつは。こわっ、怖すぎるだろ。頭おかしいんじゃないか。
僕は、自分以上に狂っている同級生を初めて見た。僕は自分の頭がおかしい自覚があって、きっと脳みその構造が常人とは違うのだと見当をつけている。サイコパスは脳の発達具合が常人とは違うのだという話を聞いたことがあり、僕はサイコパスじゃないがそれと同じ原理だ。普通の人と感じ方も見え方も違う。もちろん価値観も。
だが、あいつはもしかするとサイコパスかもしれない。でなければ対面してすぐ握手を求めてきたりしないはずだ。そうだ、あいつはサイコパスに違いない。関わらないほうがいい。関わったが最後、いや最期、僕は血塗れのバラバラ死体で発見されるのだ。そしてあいつは言う。生きた内臓を見てみたくて……。
なんてのは全て僕の妄想だが、それは今だけだ。きっと僕が背中を見せたらすぐに殺しに掛かる。なんたって僕は、死んだところで損失の無い人間だ。友達なんて一人も居ないボッチだから、悲しむ人間は居ない。兄弟だって僕を除いても四人も居るんだから、僕一人が抜けたところで津島家は安定的に存続する。まあ、僕は結婚なんてのも夢物語(僕はしたいなんて思わない)だから、やはり生きているのも死んでいるのも変わりないのだ。これは全くの真実である。
いいか? 僕よ。警戒を怠るな。友達なんて耳を貸すな。あいつは頭のおかしいクソサイコパス人間なんだ。時計仕掛けのオレンジの主人公よろしく、人を殴っても殺しても何一つ良心の呵責を持ち得ない人間だ。モラルなんてクソくらえのとんでもない大悪党なのだ。いいか、僕よ、決して心を開くな……?

「やあ津島直治」
「やあじゃない」
 次の日の朝、またしても当然のように上原子日向が話しかけてくる。そもそもなんなんだ、やあって。わざとらしい気取った挨拶をしやがって。貴族気取りかよ。
「じゃあおはよう、津島直治」
「お前は毎回フルネームで人を呼ぶのかよ」
「ああ」
「ああじゃない」
 ここで僕はハッと口を噤む。
 おい、僕よ、何普通に会話してるんだ。これじゃまるでコントだぞ。出来の悪いコントだ。
 僕は大急ぎで頭を振る。ダメだダメだ、ここはちゃんと拒絶しとかないと。
「……なあ、学級委員長、悪いんだけど――」
「日向」
「……はい?」
「おれの名前は日向。上原子日向」
「知ってるが」
「人のことは名前で呼ばなきゃダメだ」
「……なるほどね」
 僕は納得した。いや、確信を強めた。
 なーんだ、やっぱりこいつ、頭がおかしいんじゃないか。サイコパスだサイコパス。
 僕は自分の予想が寸分違わず間違っていなかったことに一種の満足感を覚える。しかし、これはよくよく考えるとおかしな話だ。だって、予想が当たっていたところで僕は何一つ得をしない。上原子日向がサイコパスだとしたら、僕は獲物でしか無いじゃないか。
 コンマ一秒考えて、僕の愚鈍な頭は結論を見出した。
 人はいつだって太平を望む。いや、人に限らない。エネルギーはいつだって高いところから低いところへ流れていくのがこの大宇宙の法則だ。位置エネルギーとか中学でやったろうが、それは宇宙のエネルギー理論のほんの一部に過ぎない。表層だ。高エネルギーのものはエネルギーを放出したがる。高エネルギーとはすなわち不安定を意味し、エネルギーを放出して、これ以上出しようが無いという状態を安定的と見做す。宇宙の全てはそうなのだ。一説には、現在の宇宙はエネルギーに満ち満ちていて、いつ崩壊するかもわからない危険な状態なのだという。僕たちは今この瞬間も絶滅の危機に瀕している。
 長くなったので要約すると、万物は安定を望み、それは自分が危機的状態に陥るとしても変わらないのだ。例えばここで僕の予想が外れていて、上原子日向がサイコパスで無かったとしよう。すると彼にはサイコパス以外の可能性が浮上し、僕はそれを考慮しなくちゃならなくなる。つまりは安定していない。僕の頭は答えを出すべく馬車馬の如く働かされる。
 これは他の例にも当てはまる。例えば映画を見ているとしよう。ホラー映画だ。しかも化け物が登場して、フィルムの中の人間が脅かされているシーンだ。
 多くの善良な視聴者は、逃げ惑う人間を応援するだろう。まかり間違っても人を襲う化け物なんぞ応援しないはずだ。視聴者の心の声はこう、「頼むから助かってくれ、逃げ切ってくれ、五体満足で、健康的に……!」などなど。
 ところが、あまりにも人間と化け物の攻防が続き、ハラハラする時間が長くなると、今度は心の隅でこう祈り始める、「こう生殺しにされているのは、人が死ぬシーンを見るのより嫌な感じだ。頼むから早く死ぬか倒すか逃げ切るかしてくれ。ああ、早く確定的になってくれ……」と。
 あとはそう、何かしらの発表会の前なんかはどうだろう? 君たちは緊張しているはずだ。そしてその緊張が耐えがたく、ピークに達した時、君たちはこう思う、「ああ早く順番が来ないかな。早く終わらせて解放されたい……」と。
 色々と冗長に例を述べてしまったが、つまり人はこれほど心の平穏を望むものなのだ。それで体がどうなろうと……心の方がずっと大事だ。
「で、僕に何か用?」
 僕は内心の思考回路をおくびにも出さない。一方の上原子日向は相も変わらず真面目腐った朴訥とした表情を続けている。ボーっとしていて何を考えているのか推察しづらい表情だ。
「友達になろう」
 なんだこいつ、友達になろうBOTか?
「どうして僕と?」
「一人は可哀想だと思って」
「……正直で何より」
 さすがのこの僕だって、真正面から可哀想扱いは可哀想だと思わないのだろうか。新手の虐めだろうか。僕はちょっと不愉快になって眉根を寄せる。
「可哀想だなんてありがとう委員長。でも僕は一人が好きなタイプなんだ。わかるだろ?」
「わからない」
「……一人が好きなタイプなんだよ。一人で過ごしている方が心穏やかでいられるんだ。だから僕に構わないでくれ」
 僕は木製の椅子から立ちあがった。上原子日向が着いてきそうな雰囲気がしたので、手で牽制する。
 酷くうんざりした気分だ。

 これは虐めっ子の主張であるが、虐められっ子が堂々としているとイライラするらしい。
 彼らの主張によれば、立場に与えられる義務がある。虐められっ子はなよなよしているべきだし、困苦に喘いだ顔を見せるべきなのだと。
 あるいは病人も苦しそうにしているべきだという主張もあるらしい。悲しいことがあれば泣いてしまうのが人間だけれど、必ずしも泣く必要は無いはずだ。これを一部の人間は現象に対する一分の例外も無い原理と捉えてしまう。そうして集団圧力が始まる。

 それからも上原子日向は諦めずに話しかけてきた。毎日毎日、朝昼夕、休み時間があれば。
 これは今になって知ったことなのだけれど、どうやら上原子日向はその天然っぽいキャラクターと涼し気な顔立ちも相まって、基本的に人に好かれる性質を有している。愛想を振りまく必要もなく、存在に愛嬌があるらしい。僕とは正反対だ。僕なんかは居るだけで人の神経を逆撫でる。それがほんの少し愉快ですらある。僕は我ながら良い性格をしているので、自分のせいで人が困っている様子を見ると楽しくなってしまうのだ。おいそこの、だから虐められるんだぞ、というのは無しだ。公平世界仮説は嘘っぱちも嘘っぱち、こっちが手を出さなければあっちも手を出さないなんてのは希望的観測である。
 諦めが悪いことはほとんどの場合によって美徳かもしれないが、一歩間違うとストーカーだ。僕はいつの間にか彼のストーカー被害に遭い始めた。登下校まで被せてくるんだから、立派な(立派ではない)ストーキングと言って良いはずだ。僕はプライベートすら脅かされ、大層困っている。
 とは言えそのプライベートも、彼に脅かされる前から終わっていることこの上ないから、結果的にはそう変わらないのかもしれない。

 僕の母親は恐らくは映画好きだ。しかしながら映画館に行くことはせず、もっぱら居間にある十年もののテレビで、古臭いDVDを流している。しかもまたキューブリックだ。スタンリー・キューブリック監督。キューブリック監督の中でも、今流れているのはあの『時計仕掛けのオレンジ』である。映画冒頭、主人公であるアレックスがモラルの欠片も無く、悪人から善良な市民まで関係なく暴力の限りを尽くす場面。
 時計仕掛けのオレンジは『シャイニング』に並んでキューブリック監督の代表作の一つで、公開が七十年代と古い作品でありながら、現在でも傑作と名高い映画だ。キューブリック監督の作品は特に色彩の置き方と連なる映像美、それに音楽の差し込み具合が素晴らしいのだという。無知な僕も時計仕掛けのオレンジでベートーヴェンの第九を覚えた。それに雨に唄えば、も。
 だが、僕は世がどれだけこれを傑作と宣おうと、時計仕掛けのオレンジは苦手だ。残虐行為が多すぎて、まるで主人公が好きになれない。ついに殺人まで犯して収監されたアレックスが十四年の刑期を短くすべく模範囚を演じるところもクズだなあと思う。それでいて、受ければ即釈放されるというルドヴィコ療法(ぶっちゃけ洗脳)を受けて毒牙を抜かれた後、家に帰れば両親に拒絶されるという展開には胸が痛む。その後も、彼は因果応報とばかりに救いがない窮地にばかり陥る。かつてアレックスと一緒に残虐行為に手を染めていた仲間が警察官になって、アレックスを笑いながらこん棒で殴り続けるシーンは最悪過ぎる。アレックスはクソ野郎だが一応刑務所に入ったのに対し、同じく罪を犯した奴らはのうのうと市井を満喫して、よりにもよって警察官になっているなんて。
胸糞悪いとはこの映画のことを言うのだろう。最後の最後までスッキリする場面も無いまま、生理的嫌悪感だけを刺激するだけして、この時計仕掛けのオレンジは終わる。
僕がこれを初めて見たのは小学校低学年の時だった。見たというよりは母親が見ているのを横から見たのだ。そして、僕はこの映画と同時に母親のことも嫌いになったのである。
繰り返し見ているということは、母親はきっと時計仕掛けのオレンジが好きなのだ。まあ評価の高い傑作なのだから、むべなるかなではある。さもありなんでもある。僕だって太宰は好きだし、それと同じようなものかもしれない。
しかし、子供の前で見る映画じゃないことだけは確かだ。僕はその日見たシーンをいつまで経っても脳裏にこびり付いたまま忘れられない。俗に言うトラウマだ。アレックスが苦痛に耐えかねて窓から身を投げるシーンだった。
口でどれだけ立派なことを言おうと、例えば「人には優しくしなさい」とか「親切や気遣いを忘れないようしなさい」とか言おうと、僕の母親は子供の前で残虐映画を見ることの影響をちっとも考えられない人なのだ。口では気遣いをしろと言いながら、本人は全く気遣いができない。いつも口だけ。しかも、それに自分じゃ気づいていない。己を善良な市民だと思い込んでいる。目も当てられない愚物。時計仕掛けのオレンジが居間に流れたのは一度や二度じゃない。
幼い頃、僕がまだ何も知らずに愚鈍な愛に浸かっていた頃、僕もまだ母親を尊敬していたことがあった。何しろ愛そのものは本物だ。僕は母親に嫌われているわけじゃない。だから嫌なのだ。愚か者の善意は時に悪意より質が悪い。善意の方向と行動を極端なまでに間違っている。南を目指して北に進む遠征隊みたいだ。これだから馬鹿は嫌だ。
そして僕は、そんな救いようの無い馬鹿の子供なのだ。
人の成長で重要なのは遺伝子か環境か、というのはよくやり玉に挙げられる話題だ。だが僕は、どちらだとしても大して変わらないと思う。だって遺伝子も環境も、どっちにしたって自分じゃ選べない。「僕はこの家庭に生まれたいです」と天国か何かで選んだわけは無い。僕はこの手の話が大嫌いだ。もし生まれる先が選べるんだったらみんな石油王かハリウッド俳優の子供に生まれるに決まっている。今この瞬間も失われる赤ん坊の命があるなんてCMでよくやっていることじゃないか。そして遺伝子も言わずもがな、生まれながらに与えられるものである。
 人は知らず知らずに生まれる。そして自分が生まれたことを理解する頃には己の全てが定まって固まって、もはや自己という電気信号の奴隷である。
 僕はよく、「僕は僕を選んできたんだろうか」と疑問に思ったものだが、今となっては自信を持ってノーと答えられる。僕は僕だと気づいたころには僕だったし、それは僕が選んだものじゃない。
――いや、自信を持っての部分は訂正させてもらおう。僕は僕に責任を持ちたくないだけなのかもしれない。僕がこうなったのは僕のせいじゃない、と思いたいのは事実だから。

 僕は、僕の世界を守って生きていく。昏くて狭いが、確かに僕を愛せる生き方だ。
「ねえ津島直治」
「……僕は、僕の世界を守って生きていくんだ」
「え、なに」
「なんでもない」
 まずい。僕のイタい自分語りがバレてしまうところだった……。
 じゃない!
「委員長さんよ、そろそろ僕に構うのはやめてくれよ」
 僕は僕の席に着きながら、傍らの上原子日向を見上げた。彼はナマケモノみたいな表情で突っ立っている。
 僕は彼をサイコパスか、もしくは僕みたいなのを揶揄っている嫌な奴なのだと思っている。よくある罰ゲームだ。じゃんけんで負けた奴があのボッチと友達になる、とか、そんなの。
 だから、絶対に心を開いてやらない。絶対に屈するものか。次話しかけられたら無視してやろう。絶対だ。
「ねえ、津島直治」
「だからなんでフルネームなんだよ! ……あ、」
「いい名前だと思って」
「……え、あ、……うっ」
 どうしてこうも上手くいかないのだろう。僕は元よりどうしようもないけれど、決意すら弱いというのか。
「ねえ、津島直治、前から不思議だったんだけど」
 不意に、上原子日向がトーンの変わらない声音をちょっとふわっとさせる。僕が思わずじっと彼を見つめてしまった。やはり腹の立つ顔だ。
「おれが聞いたところによると、きみは虐められていたんだってね。でもきみは強い」
「……は?」
「コミュニケーションに不便を感じているようには見えない。こうして話しかけると普通に答える」
「……い、いや、何を言ってるのかさっぱりだな……」
 僕は脳みそが混乱しているのを感じていた。元より出来の悪い脳髄が、更に洪水に見舞われて氾濫に沈んでいるのだ。
「どうしてきみが虐められたのか、おれにはわからない。きみはいいやつだ」
「…………あぅ、ぼ、僕は……」
 屈しない。屈しないぞ。

 あいつは悪い奴だ。あつは悪い奴だ。あいつは悪い奴だ。
 僕はまた、逃げるように学校から帰ってきた。家に帰ってきたって、嫌いな人たちしか居ないのに。家は学校以上に心の置き場の無い場所だ。学校はまだ不可侵領域に守られているけれど、家にはそれすらない。親しき仲という暴力で僕の内面まで入って来ようと化け物共が蔓延る。
「にいちやにいちゃ」
 末っ子の和乃が小さな絵本片手に僕を見上げている。
「なんだよ」
「絵本」
「見ればわかる」
「読む」
「読めばいいだろ」
「直治! お兄ちゃんでしょ!」
 後ろから母親の怒声が響いた。
「……わかったって」
 僕は狭苦しい汚い居間の隅で、子守を押し付けられる。
 好きでお兄ちゃんになったわけでも無いのに、好きでお兄ちゃんになろうと思ったことなんて無いのに。
 どうしてこうも、世の中には身に覚えのない責任で満ち満ちているのだろう。どうして身に覚えのない責任で𠮟責までされなくちゃいけないのだろう。
 僕は益体の無いことを考えながら、シンデレラを朗読する。「もっと真面目に読んで!」と妹に怒られたが無視していると、また母親の怒声が飛んできた。僕はもう少しだけでも感情を交えようと努力してみる。そんなに怒るなら自分で読めばいいのに。母親は疲れたからとスマホを弄っている。疲れているのは本当だろうけれど、だとしても自分で望んで産んだ子供だろう。嫌なら産まなきゃ良かっただけだ。どうしてそうも無責任にしていられるんだろう。僕は、結局それだけの存在なのか。大した愛情も無く産み捨てられた。こんな汚い絵本、燃えて消えればいいのに。
 そして僕は、こんなことを思う自分を嫌悪する。長男だから、と胸を張れない。僕はきっと、化け物を前にしたら可愛い妹を放り出して自分一人で逃げる。なんなら妹を餌にする。だが結局、そんな卑劣も虚しく僕は喰われる。
 ふと、上原子日向の顔が過った。
 いいやつだ、なんてバカバカしい。あいつは目が腐ってる。

 上原子日向は相変わらずしつこかった。僕の愚鈍な頭は解決策を一向寄越さない。それどころか霧に包まれたように錯乱したままだ。
「ねえ」
 僕が太宰を読む横で、上原子日向がツンツンと肩を突いて来る。
「なにか?」
「それおれに貸してくれよ」
「それって……えっ」
 まさかこれか、と僕は思わず本をギュッと握る。大切に読んできたのに、少ししわが寄ってしまった。僕はこういうのが気になって仕方が無い質なので、まるで生涯の汚点だ。
「うんそれ、おれに貸してくれよ」
「え、でもこれ」
「太宰治だろ? 有名だけど読んだこと無いんだ。教科書の走れメロス以外は」
「あっ、まあ、これは太宰治傑作集だけど……でも」
「なにか?」
「……や、読みたいなら、はい」
 僕はおずおずと、僕の宝物を差し出す。中学に上がった時に、自分へのご褒美として古本屋で買った本だ。置いてある奴の中じゃ一番状態が良かった。家の奴らと違って僕はこれを大事にとってきたから、そう汚いシミとかは付いていない……と良いんだけれど。
「ありがとう」
「どう、いたしまして」
 言い慣れない単語だった。どういたしまして。最後に言ったのは、もう何年も前だったんじゃなかろうか。
 上原子日向は紙をペラペラ捲ったりサーッと指で触れたりしている。僕の持ち物のはずなのに、ずっと前から本当は彼の所有物だったんじゃないかと思えてきた。
「傑作集って言ったっけ」
 上原子日向が目だけ僕に向けて尋ねた。
「まあ」
「短編集的な?」
「ああ」
「じゃ長いやつは入ってないんだね」
「ああ、ちょっとマイナーなやつが多いかも。マイナーっつっても、たかが知れてるけど」
「文豪だもんなあ」
 そう言うと、上原子日向はカラカラと笑った。
 え、なんで。なんでここで笑う。こわっ、やっぱり怖いぞこいつ。
「きみは読書が好きなの?」
 よくわからない笑みを湛えたまま、上原子日向は問う。
 なんなんだ。僕を馬鹿にする材料を探そうと言うのか。
「……それなりには」
「ふーん、おれはあんまりだな」
「……あ、そう」
 じゃあ聞くなよ。僕への当てこすりってやつか?
「読むとなると漫画ばかりだなあ。きみは漫画読む?」
「いや」
 残念ながら、賢いムーブが好きなうちの親は漫画もアニメも禁止だ。口に出すだけで嘲笑を孕んだ口ぶりでこう言う。「将来ニートにでもなる気? お母さんオタクだけは嫌だなあ」
「そっかー……あ、そうだ」
「え、なんだよ」
 何かを思い出したらしい上原子日向に、僕は恐怖を覚える。なんだ、今度は何を言い出す気だ。
「おれ読書は得意じゃないから、毎日朝の読書の時間に少しずつ読むだけなんだけど、最近ちょうど読み終わったところなんだ」
「読み終わったって、何を」
「学園青春ミステリー」
「うわ」
 僕は思わず嫌な声を出して、ハッと口を噤む。僕はなんて空気の読めない奴なんだ。だから嫌われるんだぞ。
「まあ中身は、ミステリーを騙った恋愛小説だったんだけどね。主人公の男子が不思議っ子女子生徒会長に振り回される」
 僕の狼狽を全く気にもせず、上原子日向は言う。
「え、青春に加えて恋愛まで加わるのかよ……」
 僕の嫌いなもの詰め合わせセットだ。
「愛が人類にとって一番のなぞって言うし」
 上原子日向は何故だか得意げに述べる。
「誰の言葉だよ」
「忘れた。なんか哲学者かなんかだと思うけど」
「雑だな……」
 上原子日向はそのキャラクター性からマスコットのような愛され方をしているが、この大雑把な感じは確かに僕でさえ絆されそうと言うか、彼と話していると頭がふんわりしてダメだ。
 って、ちょっと! 僕は心を開いてなんて無いぞ!
「……あのさ」
 僕はなんとか勇気を絞り出す。そうだ。波に揺られているのも大概にしないと。
「ん?」
 上原子日向は首をちょっと傾げた。やはり、どこか動物的な可愛い仕草だった。
「なんで、僕に話しかけてくる」
「うん?」
「あれだろ? 罰ゲームだろ。ちょっと仲良くなってから種晴らしするんだ」
「……んん? 何の話?」
 すっとぼけた上原子日向に、僕は段々と苛立ってきた。
「だーかーらー、僕を揶揄ってるんだろ? そういうの慣れっこなんだよ。僕に聞こえるところでわざと作戦会議してさ、じゃんけんで一人特攻役を決めて――」
「えっと、ちょっと待ってくれる?」
 遮られてしまったので、僕は仕方なく黙る。何なんだこいつは。
 ややあって、上原子日向は少々心外そうな、僕を非難するような目をした。
 その瞬間、胸がドキッと痛んだ。
 頭がまた混乱する。なんなんだ、なんなんだよ。僕が何をしたって言うんだ。
「おれは、そういう罰ゲーム的なのではないよ。そう思われていたなんて傷つく」
「傷、つく……?」
 あれ、これは僕が悪いのか? もしや今すぐ謝ったほうがいいやつか?
 いやちょっと待て、これも作戦じゃないか? 僕に罪悪感を植え付けて、本格的に騙すつもりなんじゃ……。
 わからない。僕にはわからない。
「おれは、ただ……その」
「はい、何でございましょうか」
 もうどうにでもなってしまえ。
 僕はただ黙って、恭しく言葉を待った。珍しく、上原子日向は困った様子で眉尻を下げている。本当に珍しい。いつも何を考えているかわからない、ぼうとした無表情なのに。
「おれは……その、これに他意は無いんだけど」
「ああ」
「おれは……きみの顔が好きなんだ」
「――え、」
「あと声、とか、全体的な雰囲気が。なんて言うのかな、浮世離れしてる感じが、すごく」
「……すごく」
「他意は無いからね。大事なことだからもっかい言うけど」
「……あ、はい」
「そうだ、おれの本も貸したげるよ。交換っこだ」
「あ、はい」
 だそうなので、僕は青春学園ミステリなるものを押し付けられた。
 折り目一つない、綺麗な文庫本だ。

 僕は家に本を持ちかえって粛々と読み進めた。最初は警戒したものの、主人公が何となく僕に似ている気がして、意外とすんなり読める。なんて言ったって口が悪い。
 読書は好きだ。本の世界に入り込めるのがいい。紙と文字だけで構成される世界。シンプルで心がスッと溶け込むようだ。主人公は映画好きのようだが、僕は映画より本の方が好きだ。映画は家か映画館じゃないと観られないけれど、本は持ち歩いてさえいればいつでも僕の避難場所たり得る。そう、本は僕の避難場所なのだ。心の。

 半分ほどは読み進めた。僕は急遽尿意を感じてトイレに向かった。そろそろ夕飯の時間でもあるようだ。
 さて、僕はトイレから帰ってきた居間で、信じられないものを見た。
 上原子日向から借りた本が、鍋敷きにされていた。真っ黒に焦げたフライパンの下に、敷かれている。
「――え⁈、ちょっとそれ僕の!」
「え? なに?」
 母親が首を傾げて僕を見る。大声を出した僕を責めるような目でもある。
「その本! フライパンの下の! それ僕のだよな!」
「さあ、あったから使っただけだけど」
「あったからって……それ借り物なんだぞ!」
 責めたいのはこっちの方だ。僕は自分でも引いてしまうぐらいに悲痛な声が出てしまう。だって、それは借りた本だ。読み終わったら返さなくちゃいけない。綺麗な本だったのに。
「あらぁ、でも置いてあったから」
「置いてあるのを勝手に触るなよ! カバンの上にあったんだからわかるだろ!」
 僕は勝手に触られる危険性も考えて、きちんと自らのテリトリーに置いておいたのだ。
 まさかその内にまで入り込まれて、足蹴にされるなんて思わなかった。
「そうだっけ……ごめんごめん。許してよ」
「……許せって……」
 ああ、これだ。僕はこれが一番嫌いだ。
 優しくあれとか、迷惑をかけないようにとか、そういうことを普段から耳にタコができるぐらい言いながら、結局これなのだ。自分がヘマしたら笑ってテキトーな謝罪を口にして、それで全部水に流させようとする。僕が許さないって言えば、次は「謝ってるのに許さないなんて心が狭い」とか「本ごときにムキになって」とか言う。
 いつもそうだ。僕が子供だからってバカにしてる。子どもだから逆らわないと思ってる。
 ぼたぼたと涙が零れた。埃と髪の毛が目立絨毯に、染みができていく。
「え、なんで泣いてるの」
 遠くで声がした。僕をバカにした声だ。「なんで泣いてるの」は「こんなんで泣くなよ」の言い換えだ。こればっかりは僕の被害妄想じゃない。僕の母親はいつもこうなのだ。僕が辛さに耐えかねてつい泣いてしまうと、それを明確に非難してくる。まるで自分が悪いみたいな気持ちになるんだろう。僕の母親はとても道徳的だ。
 誰がこんな家に好き好んで生まれるんだよ。ふざけんなよ。
「……出てくる」
「いや夕ご飯だって――」
「こんなんで食えるわけないだろ!」
 人生で初めての反抗だった。
 僕は、矛の納め方も知らずに家を出る。

 本を返したのはそれから一週間後だ。新品のを買い直した。
「わあ、もう読み終わったの?」
 上原子日向が無邪気に驚いた顔をする。ちくりと針で刺されるような痛みが過った。
「まあ」
 本当は借りた当日に読み切っていた。だがここいらにはいい本屋も無くて、新しいのを本屋経由で取り寄せるのに手間取ってしまったのだ。
 僕は真実を告げない。言えない。
「おれはまだなんだ。近いうちに返すから待ってくれ」
「や、別に早くなくていい」
「そう? でもまあ、八割方は読んだんだ。おれの中じゃあかなり早い方なんだけど。きみには負けるね」
「……ゆっくりでいいよ。ちゃんと読んで欲しいし」
「ああ、任せてくれ」
 僕は、何故だか得意げに胸を張る上原子日向の顔をぼんやり眺めた。僕より少し低い位置にある顔。
この間、教室の隅で女子たちが「クラスの男子で一番のイケメンは誰か」というきゃあきゃあうるさい会話が行われていた。その中で上原子日向が候補に挙がっていた。格好いいんだけれど、ちょっと可愛げもあるのがいい、らしい。僕はそれを、わかるぞ、と内心で思った。わかる。

 僕は、家も学校も嫌いだった。つまりは全てが嫌いだった。どっちにしたって居場所がない。僕の居ていい世界はどこにも無い。
 けれど、それが徐々に変わりつつある。変えられつつ、ある。
 僕は混乱しままの頭で考え続けていた。
 もし……もし、例えば、彼が、僕の――友達になってくれるなら。
「ダメだダメだ」
 そんなこと考えるな。希望なんて持つなよ。痛い目を見るのは結局自分だぞ? 希望なんてのは、上げて落とすために存在するんだ。フラグだフラグ。
 どうせ、僕の人生はもう終わっているんだ。もうとっくの昔に、生まれる前から終わっているんだ。
 そして、僕のこれは寸分違わず的中する。

 あれから僕の太宰は綺麗な状態で帰ってきた。その後の読書トークは、正直に言ってしまえば楽しかった。
 だから、放課後になってクラスメイトに囲まれた時は、一瞬呆気にとられた。以前の僕ならすぐに気が付いたのに。
 悪意のある人間なんて。
「ねえ」
 僕はその声に、制服の下で震えた。やあと声を掛けてくるのが嫌な奴かはわからないが、ねえと言ってくる奴はこれまで百パーセント禄でも無かった。
 僕はできるだけ心を無にして振り向いた。ああ悲しきかな、僕の手には太宰があった。
 そこには四人の生徒が居た。女子と男子、二人ずつ。みな、腰に手を当てて嫌味な顔をしている。
「ねえ」
「あ、うん」
 僕は警戒心すら見せないよう、できるだけ平静に見せかける。
「うんじゃなくて。なんでうちらがわざわざあんたに話しかけてるかわかる?」
「さあ?」
「さあ、じゃないでしょ」
「そんなこと言われても」
 僕が言い返すと、眼前の女子生徒はわざとらしく苦笑を漏らして周囲に視線をやった。周りに居る三人もこもった笑いを確かに漏らす。僕をせせら笑っている。
 彼女らは僕を見下した笑いを隠さない。それどころか、見せつけるようにニッコリする。
「調子乗ってるよね」
 女子生徒は確認するように言う。取り巻きも「それな」と頷いた。僕は調子に乗っているらしい。まあわかる。
「それに太宰治とかマジで気取ってるっていうか」
「それな~。『僕は頭がいいんです』アピールなの見え見え。意識高い系かよ」
「てか太宰治ってめっちゃクズらしいじゃん」
「あー、それ聞いたことあるわ」
「類は友をってやつ?」
「……ふん」
 僕は、思わず鼻で笑ってしまった。四人が苛立たし気に僕を見た。
「は?」
「ほら、やっぱ調子乗ってるわ。日向に優しくされたからって、ボッチくんはこれだから」
 その言葉で、僕は完全に理解する。
 そうか、こいつらは僕があいつと話すのが気に食わないんだ。
「しかも話しかけてもらってる身で偉そうだし」
「それな。してもらって当たり前、みたいな」
「日向のおかげで二組の奴らも手を引いたって言うのにさ」
 あいつのことが好きなのかもしれない。好きにも色々あるけれど、まあ僕のことが気に食わない程度には上原子日向を良く思っているのだろう。わかるさ。僕は汚い病原菌みたいなものだろう。実際、僕は汚い家で育った、遺伝子から薄汚れた奴だ。立場が逆だったら僕だって。
「……一応言うけど」
 僕は喉から言葉を絞り出す。もしかしたら、言葉だけでは無いかもしれないけど。
「一応言うとさ、太宰治はすごい人だよ。僕は類じゃない。友でもない」
 四人は黙った。
 少ししてから、筆頭女子が言う。
「イミわかんないんですけど」
 だよな、と思う。僕たちはわかり合えない。住んでいる世界が違う。
 だが、次にとった行動はさすがに酷いんじゃないかと思う。
「ムカつくんだよ」
 気づけば、僕の手から太宰が消えていた。
 ひったくられたのだとわかったのは、それが遠くに投げ捨てられた後だった。
 遅れて、笑い声がする。僕は教室の小さな扉から廊下の先を見ている。
「早く取りに行けばー?」
 僕の宝物が、大きな音を立てて床に落ち、人体がひしゃげるみたいに無惨に折れ曲がっているのが見えた。
 さすがに酷いじゃないか。こんなのは、さすがに初めてだよ。
「……ふざけんなよ」
「ん? なんて言ったか聞こえないなあ」
 恐らくは聞こえていたと思う。だから僕は、代わりにその女の腹を殴った。
 女が倒れる。周囲の同級生が化け物でも見るみたいな目で僕を見る。
 そうだよ。どうせ僕なんか、ずっとそうだよ。
 これでいい。これで。

 そのあとは、まさしくてんやわんやというやつだった。学校に親が呼ばれて、僕は母親に怒られた。それはそれは怒られた。泣きながら怒られた。
 母親の主張はこう。
「謝りなさい」
 僕は嫌だった。
「謝りに行きなさい。お母さんも行ってあげるから」
 いや別に要らないけど……ていうか、「あげる」って、すごく上から目線だな。
「よりにもよって女の子に手を上げるなんて……最低だよ」
 最低に育てたのはお前だろ。誰のせいでこうなったと思ってるんだ。
「……はあ、失望した」
 上等だよ。こっちは、もうとっくに失望してるんだから。
 まるで僕が悪いみたいだ。みんなが僕に後ろ指をさした。まあ、確かに手を出したのは僕だけど。でもちょっと酷くないですか?
 ……いや、僕が悪いか。相手は腐っても女子だしなあ。腹パンはさすがになあ。
 僕は溜息を吐く。
 結局、母親が謝ったことで何とかなったらしい。僕は意地が悪くて頭がおかしい。慈悲深い母のとりなしに助けてもらったと周囲は言う。担任も僕を呼びだして、「お母さんに感謝しろ」と言った。まあそうなんでしょうよ。育ててもらってますしね。そもそも僕は産んでくれなんて頼んでませんけど。

 僕は、当たり前だが心が沈んでいた。まるで落ちて、行くように。体も、深海の底へ、落ちて。
 不意に、僕は死んだほうがいいのだろうか、と疑問に思った。
 家族からは腫れ物みたいな扱いを受けているし、それ以外の人もみんな僕を嫌っているし。
 こんな僕でも、今まで本気で死を考えたことは無かった。
 でも考えだすと止まらない。
病気みたいなのに病気じゃないのが一番苦しい。どうせ落ちるなら、落ちているなら、ずっと一番下の下、落ちようの無いところまで落ちたら、安らぎを得られるだろう。
 エネルギーは太平を望む。生物はエネルギーの塊だ。

 それは茜の差す放課後だった。斜陽だ。夕凪が遠くに輝いている。
「……眩しいな」
 何もかもが眩しい。
 瞼を落としてみても、明るさは変わらない。
 目を開けてみる。
「綺麗だな」
 うん、僕にもわかるよ。太陽は見ていると元気になれる。眩しくて、綺麗で、暖かい。
 頬が濡れた。
 この学校は珍しいことに屋上が解放されている。身長を超えるフェンスが設置されているから問題無いと言いたいのだろう。まあ、僕もちょっと、実物を見ると怖気づかないでもない。
 昔、母親が僕の手を見て「生命線が長い」と言った。僕の手を握ったまま、長生きできると屈託なく笑った。
 その時の僕は、それを見て「じゃあ今すぐ死んでやろうか」と内心で思ったものだ。クソみたいな占いをひっくり返すためだけに死んでやりたかった。我ながら性格が悪すぎる。
 頭上をカラスが行き交う。来世は鳥になりたいかもしれない。いや、やっぱりやめておこう。ミミズを啄むのは嫌だ。
 僕は何にもなりたくない。僕にもなりたくない。
 僕は慎重にフェンスに触れた。所々で蜘蛛の巣が張っていて汚い。それでも僕は、もっと指を絡めてやる。煤のような黒い汚れや黄砂か何かの黄色い汚れも、ありとあらゆる汚れが手に胸に学校のジャージにべっとり付いて行く。
 そして、結構上まで登ったところだった。
「津島直治ッ‼」
 後ろから大きな声がして、本当に大きな声がした。まるで世界を揺り鳴らす轟音だった。
 しかも、この呼び方は覚えがあり過ぎる。もう少し没個性的な言い方はできなかったのだろうか。
 僕はフェンスに張り付いているので振り向くこともできなかった。
 すると、いきなり足がグッと重くなって抜けるかと思った。
 下を見ると、なんと上原子日向が僕の足にしがみついている。僕の足を胸に抱えるように。
「え、ちょっとお前! 汚れるだろ!」
 もともと汚い靴に、今は更にフェンスの汚れまで付いているんだから。
「汚れるくらいなんだよ!」
 下からまた怒声が響く。言葉と共に足に絡んだ指にまで力がこもっているのがわかった。
「……なんでだよ」
 なんで、なんで僕なんか。
「なんでって何だよ! てか早く下りろ! 危ないだろ!」
「下りねえし危ないから居るんだが⁈」
「単刀直入に言うけど死ぬなんて許さないぞ!」
「ものすごく単刀直入だな!」
 言い返しながらも、僕はまた視界が滲んだ。
 なんなんだ。なんなんだよこれ。
 僕は途方に暮れる。今この瞬間も、夕日は目に見えて沈んでいく。
「……なんなんだよお前。僕は助けてくれなんて頼んでないぞ」
「ああ頼まれてないね!」
 らしくもなく大声を出しやがって。
「じゃあなんで」
「それは前も言っただろ!」
「なんて」
「おれはきみの顔が好きなんだ! あと声とか、全体的なあれそれが!」
「意味わかんえねえよ」
「おれにもわからない! でも放っておけない!」
 いい加減な主張だ。根拠が無いし、以前と変わらずなんらの掘り下げも無い。
「きみはおれのこと嫌いか!」
 予想もしないところから、今度は上原子日向が尋ねて来る。
 僕は。
「……ああ、嫌いだよ」
 嫌いだよ。
「どうして!」
「……僕は、僕の世界を守って生きていくんだ。そう思ってたのに」
 お前のせいで全部台無しだよ。
 お前さえ現れなければ、今もきっと死んだように生きていたのに。
 それで充分だった。そうすれば、いつか僕はきっと。
僕はまだ、これでも、まだ――。
もう少しで、僕は僕を一つは愛せたのに。
「僕みたいな人間には、お前みたいなのは居るだけで不愉快なんだよ」
「酷くないか⁈」
「酷いよ! 僕は酷い人間なんだよ!」
 僕は叫んだ。自分でだって本当はこんなこと言いたくないのに、言わせないで欲しい。
「僕はダメなんだ。……本当は、お前のこと良い奴だって、最初からわかってたんだから」
 そう、僕はわかっていた。サイコパスなんて本気で思ったことは無かった。罰ゲームなんてのも、自分で言いながらこいつは違うだろうと思っていた。
 多分良い奴なんだろうなって思って、多分僕を助けてくれようとしてるんだろうなって思って、僕なんかに構うなんて本当に良い奴だなと思って。
 だから怖かった。希望を見せられて、後になってへし折られるのが、堪らなく。
「頼むから、もう僕には関わるなよ。勿体無いぞ」
「勿体無いって」
「僕に関わる時間が勿体無いだろ。人生は一度きり、限られた時間で精一杯生きるんだ」
「それきみが言うの⁈」
「ああ、僕だから言うね」
 人生に失敗した僕みたいなのが言うんだから、そんじょそこらの綺麗事好きよりも説得力があるだろう。僕は綺麗事を言いたいんじゃない。正論で相手をやり込みたいのでもない。
「お前は、僕のことなんかとっとと忘れて幸せに生きればいいだろ。お前は良い奴だし、さっさと幸せになったほうがいい。……僕は、これでいいから。頼むから」
 みっともない声が出る。馬鹿みたいに泣けてきた。上原子日向の顔にまで僕の涙が零れている。申し訳ないなと思った。すみませんね、汚しちゃって。
「頼むよ……僕に、僕を愛させてくれよ。これで僕は、ようやく自分を認められるんだ」
「死んでか!」
「そうだよ。いいだろ、斜陽みたいで」
 僕は太宰治の斜陽を思い返していた。
 少しずつ傾き、陰り、壊れ、だからこそ眩しい。茜が差して。
 美しい悲劇。僕は、あれになりたい。
「すまないが読んでないからわからない!」
「……は?」
「きみが貸してくれたのには斜陽が無かった! だからピンと来ない! ごめん!」
 上原子日向は本当に申し訳なさそうに叫んだ。
「わからないから、わからせてくれ!」
 まるで殺し文句みたいに彼は言う。
「勝手に読めばいいだろ……っ!」
「読んだ後できみが居なかったら最悪じゃないか!」
「……っ、それは、」
 確かにな、とちょっと思ってしまう。言葉も古い昭和の代物を本気で語り合える人はそう簡単に見つかるものか。感想を言い合うだけで僕らは笑ってしまうのに。
「もっかい言うけど、おれはきみのこと放っておけないんだ! 死んだら祟ってやるからな! 絶対に許さない!」
 意味がわからない。普通祟るのは死んだ側だろ。幽霊を祟るって意味わかんねえよ。
「意味わかんねえ……」
「わかんなくていいよ! なんだっていいよ! もっと馬鹿みたいにしてようよ! 一生そうしてようよ!」
 上原子日向は畳みかけるように言う。
 馬鹿なのかなと一瞬思ったが、そう言えば彼は僕より成績が上だった。酔狂だけど、馬鹿だから言ってるわけじゃない。馬鹿みたいだが。
「……はあ」
 僕は大きな溜息を吐いた。
 最低だ。僕は最低だ。世界で一番の最低だ。
なんだって、僕はいつもこうなんだろう。
 誰かが手を差し伸べてくれても、うまく取れなくて払ってしまう。払う気は無かったのに、どう取ればいいのかわからなくて。手の握り方がわからなくて。知らないうちに誰も居ない。
 救いの糸を自分で燃やして、その残骸すら燃え尽きていくのを、ぼうとしたまま見ている。なんて馬鹿な生き物だろう。僕はどうしてこうなんだろう。
 僕だって、本当はもっと、上手く生きたかった。
 僕は、フェンスから一思いに手を離した。体が落下する。僕が落ちて行く。
永遠に似た刹那。落ちる、落ちる。
 僕は、コンクリートに叩きつけられた。
 と思ったのだが、どうやらコンクリートよりは柔らかいものが下敷きになった。
「……いってえ……っ!」
 らしくもない乱暴な言葉遣いが下から聴こえた。
「次からは気をつけろよ」
 僕は上から目線で言う。呻き声がまだ聞こえる。
「……ああ、次は無いけどね」
「どうだか」
 こんなのは一区切りに過ぎない。
 隙さえあれば、僕はいつだって死んでやるんだからな!
 上原子日向は随分痛そうにしながらよろよろと立ち上がった。僕はぼうと眺めていた。
 ややあって、彼は僕に言う。
「まずは斜陽を貸してくれ」
「いいさ。十遍読み込めよ」
「百遍読んでやるとも」
 減らず口叩きやがって。
 濡れた頬に、茜が反射している。
 夕暮れが閉じ込められたみたいだ。
 綺麗だ。

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