永遠と停滞と月明かり

短編
三分程度

 休もうとして休めるなら、それは幸福だ。それが出来ずに終わりの無い思考に延々と磨り潰される、壊れかけの歯車が壊れないままずっとギシギシ回るみたいな、そんな状態になれば、悲惨だ。

 亜門は昔、ミシェルに対してそれを感じたことがある。それは――ある冬の日のことだった。冬の、朝……朝の陽射しが重く垂れ込めた雲を通して、薄い光彩をカーテン越しに届けていた。

 ミシェルは夜型なので、朝早くに起きているのは意外だった。だがそのぼんやりと絶望した面影が、朝を拒絶するように虚ろに凪いでいるのを見て、亜門は気が付いた。あれは起きているのではなく、寝ていないだけなのだ。ミシェルは何もない廊下のただなか、光の届かない場所から、窓の外の光の届くのを見ている、そう言う風に亜門には見えた。

「おはよう」

 亜門は気づかないふりをして、その横顔に声をかけた。声が変ではなかったか、それが気がかりだった。

 ミシェルは驚きもせず、あるいはただ驚くことさえ面倒みたいに、悠然と亜門へ顔を向けた。

「……おはよう……」

 それから、彼は腕を少し上げて、手首を見た。彼の左手首には、シンプルな腕時計が装着されている。一昨年の誕生日に、亜門がプレゼントしたものだ。

「ああ……」

 亜門が目を覚ました時、部屋の時計は五時を指していた。今はそれから五分か十分は立っただろうか。ミシェルの独り言みたいな弛緩した声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。

「ご飯にしようか?」

「ご飯……」

 ご飯と言う単語すら、その時のミシェルには分かっていない気がした。言葉を覚えたての幼児みたく、ご飯とその概念が結びついていないみたいだった。

「……大丈夫か?」

 思わず、亜門はそう尋ねてしまっていた。

 それが、大きな間違いだった。

「……だい、じょうぶ……?」

 ご飯の時と同じように、ミシェルは亜門の言葉を繰り返す。しかしすぐに、その表情が命をもって、ぴくりと動いた。まるで氷が割れるように、何かがぴしゃりと彼の中で変わった。

 ミシェルは、唐突に胸を抑えた。右手で胸を抑えて、左手で体を支えるように壁を衝く。

「あ、……あ」

「ちょ――お前、大丈夫か⁈」

「あ、だ……あ、」

 亜門が急いでミシェルに駆け寄った時、ミシェルの呼吸は酷く荒れていた。彼は過呼吸を起こしていた。息の吸い方も吐き方も、ミシェルには分かっていなかった。浅すぎる呼吸が千々に乱れて、形を為さずに困苦と果てる。

「はっ、は……うぁっ――」

 長細い体が重力に逆らえず、崩れていく。自身にのしかかる重みが、ただの体重なのか他の何かも存在するのか、亜門には区別がつかない。

 苦し気に喘ぐミシェルは、その後一時間はそうしていた。殺風景な廊下で、時の流れはミシェルの腕時計だけがよすがだった。

 ミシェルが正常に戻った時には、六時を軽く過ぎてしまっていた。尤も、正常と言って良いのかは分からない。呼吸を出来ることを、正常とするならの話でしかない。

「……ごめん」

 掠れた声が、意味のある言葉を紡ぐ。亜門はすぐさま、それを理解する。

「謝る必要なんてない」

「……ごめん」

 さながら、調子の外れたバイオリンの悲愴だ。ミシェルは、それだけでは終わらなかった。

「ごめん、ごめん……」

 謝らないで欲しかった。ただ、その願望が更に苦しめるのは分かっていた。亜門は言葉の全てを、喉の奥に押し込めて、二度と声にはしないことに決めた。

 ただ――ほかに出来ることも、亜門には分からなかった。

 分からないまま、震える体と一緒に、床の冷たさに体温を奪われ続けた。

 いつしか、更に時は流れた。

 亜門の腕や心臓の前で、呼吸と拍動がゆったりと規則的に刻み始めていた。ミシェルは眠っていた。少しだけ、ようやっと幸福そうな横顔を見ていた。目の下の乾いた落涙の跡が、星の残骸みたいに思えた。冷たい壁と床に体を預けて、少し温かなもう一つの体を抱いて、亜門は目を瞑った。瞼の裏でいくつもの光景が流れては、また流れていく。気づけば意識が融け落ちていた。

 そして目が覚めた時、世界は暗かった。

 いや、遠くに月明かりが差していた。

「……綺麗だ」

 思わず呟く。思ったのは、月明かりには永遠の一端が含まれていると言うことだった。太陽からは、それは感じ得ない。永遠は月にしかないのかもしれない。

「……んんっ……」

 ミシェルが身じろぎして、寝ぼけた声を出す。月明かりは遠く、二人の居る場所は暗い。それでも亜門には、ミシェルが目を覚ましたのだと分かった。その目が、月明かりを映しているのだとも。

「月……」

 ああ、とミシェルが呟いた。

「綺麗だな……」

 それが単なる独り言だから、亜門はおかしくなってしまった。笑った亜門を、ミシェルが暗がりで体を動かした。恐らくはこちらを見上げているのだろうと、亜門は考えた。

「君……まだ居たんだ……」

「まだって」

「だって……もう暗いから……」

「そうだな」

 すっかり一日を台無しにしたことが、亜門は少しも後悔できずにいた。むしろどこか、せいせいした心地さえ。

「ああ……」

 また月明かりを眺め始めたミシェルが、ぼんやりした声を出す。

「永遠と……停滞って…………似てるよね……」

 寝起きで言うことじゃないだろう、なんて言うのはやめにして、亜門はまた笑った。

「そうかもしれないな」

「時間は永遠の動く影だって……そう言ったのは誰だっけ……」

「知らないな……初めて聞いたよ俺は」

「そっか……」

 まだ眠そうな声は、今の月明かりのように朧気だ。

「僕は……どちらだとしても――」


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