永遠と停滞と月明かり
休もうとして休めるなら、それは幸福だ。それが出来ずに終わりの無い思考に延々と磨り潰される、壊れかけの歯車が壊れないままずっとギシギシ回るみたいな、そんな状態になれば、悲惨だ。
亜門は昔、ミシェルに対してそれを感じたことがある。それは――ある冬の日のことだった。冬の、朝……朝の陽射しが重く垂れ込めた雲を通して、薄い光彩をカーテン越しに届けていた。
ミシェルは夜型なので、朝早くに起きているのは意外だった。だがそのぼんやりと絶望した面影が、朝を拒絶するように虚ろに凪いでいるのを見て、亜門は気が付いた。あれは起きているのではなく、寝ていないだけなのだ。ミシェルは何もない廊下のただなか、光の届かない場所から、窓の外の光の届くのを見ている、そう言う風に亜門には見えた。
「おはよう」
亜門は気づかないふりをして、その横顔に声をかけた。声が変ではなかったか、それが気がかりだった。
ミシェルは驚きもせず、あるいはただ驚くことさえ面倒みたいに、悠然と亜門へ顔を向けた。
「……おはよう……」
それから、彼は腕を少し上げて、手首を見た。彼の左手首には、シンプルな腕時計が装着されている。一昨年の誕生日に、亜門がプレゼントしたものだ。
「ああ……」
亜門が目を覚ました時、部屋の時計は五時を指していた。今はそれから五分か十分は立っただろうか。ミシェルの独り言みたいな弛緩した声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。
「ご飯にしようか?」
「ご飯……」
ご飯と言う単語すら、その時のミシェルには分かっていない気がした。言葉を覚えたての幼児みたく、ご飯とその概念が結びついていないみたいだった。
「……大丈夫か?」
思わず、亜門はそう尋ねてしまっていた。
それが、大きな間違いだった。
「……だい、じょうぶ……?」
ご飯の時と同じように、ミシェルは亜門の言葉を繰り返す。しかしすぐに、その表情が命をもって、ぴくりと動いた。まるで氷が割れるように、何かがぴしゃりと彼の中で変わった。
ミシェルは、唐突に胸を抑えた。右手で胸を抑えて、左手で体を支えるように壁を衝く。
「あ、……あ」
「ちょ――お前、大丈夫か⁈」
「あ、だ……あ、」
亜門が急いでミシェルに駆け寄った時、ミシェルの呼吸は酷く荒れていた。彼は過呼吸を起こしていた。息の吸い方も吐き方も、ミシェルには分かっていなかった。浅すぎる呼吸が千々に乱れて、形を為さずに困苦と果てる。
「はっ、は……うぁっ――」
長細い体が重力に逆らえず、崩れていく。自身にのしかかる重みが、ただの体重なのか他の何かも存在するのか、亜門には区別がつかない。
苦し気に喘ぐミシェルは、その後一時間はそうしていた。殺風景な廊下で、時の流れはミシェルの腕時計だけがよすがだった。
ミシェルが正常に戻った時には、六時を軽く過ぎてしまっていた。尤も、正常と言って良いのかは分からない。呼吸を出来ることを、正常とするならの話でしかない。
「……ごめん」
掠れた声が、意味のある言葉を紡ぐ。亜門はすぐさま、それを理解する。
「謝る必要なんてない」
「……ごめん」
さながら、調子の外れたバイオリンの悲愴だ。ミシェルは、それだけでは終わらなかった。
「ごめん、ごめん……」
謝らないで欲しかった。ただ、その願望が更に苦しめるのは分かっていた。亜門は言葉の全てを、喉の奥に押し込めて、二度と声にはしないことに決めた。
ただ――ほかに出来ることも、亜門には分からなかった。
分からないまま、震える体と一緒に、床の冷たさに体温を奪われ続けた。
いつしか、更に時は流れた。
亜門の腕や心臓の前で、呼吸と拍動がゆったりと規則的に刻み始めていた。ミシェルは眠っていた。少しだけ、ようやっと幸福そうな横顔を見ていた。目の下の乾いた落涙の跡が、星の残骸みたいに思えた。冷たい壁と床に体を預けて、少し温かなもう一つの体を抱いて、亜門は目を瞑った。瞼の裏でいくつもの光景が流れては、また流れていく。気づけば意識が融け落ちていた。
そして目が覚めた時、世界は暗かった。
いや、遠くに月明かりが差していた。
「……綺麗だ」
思わず呟く。思ったのは、月明かりには永遠の一端が含まれていると言うことだった。太陽からは、それは感じ得ない。永遠は月にしかないのかもしれない。
「……んんっ……」
ミシェルが身じろぎして、寝ぼけた声を出す。月明かりは遠く、二人の居る場所は暗い。それでも亜門には、ミシェルが目を覚ましたのだと分かった。その目が、月明かりを映しているのだとも。
「月……」
ああ、とミシェルが呟いた。
「綺麗だな……」
それが単なる独り言だから、亜門はおかしくなってしまった。笑った亜門を、ミシェルが暗がりで体を動かした。恐らくはこちらを見上げているのだろうと、亜門は考えた。
「君……まだ居たんだ……」
「まだって」
「だって……もう暗いから……」
「そうだな」
すっかり一日を台無しにしたことが、亜門は少しも後悔できずにいた。むしろどこか、せいせいした心地さえ。
「ああ……」
また月明かりを眺め始めたミシェルが、ぼんやりした声を出す。
「永遠と……停滞って…………似てるよね……」
寝起きで言うことじゃないだろう、なんて言うのはやめにして、亜門はまた笑った。
「そうかもしれないな」
「時間は永遠の動く影だって……そう言ったのは誰だっけ……」
「知らないな……初めて聞いたよ俺は」
「そっか……」
まだ眠そうな声は、今の月明かりのように朧気だ。
「僕は……どちらだとしても――」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?