見出し画像

短編ミステリー「教会にて」

短編ミステリー
10分程度



 それから、不思議な人を見た。夕暮れ、教会のステンドグラスに差す斜陽、眩しい。だがその人は、強烈なまでの夕陽を避けて、影のある席に腰を据えている。教会全体を見渡せるような、最後部の長椅子の、更に一番端の席。そこだけは、太陽の悪あがきから逃れることが出来る。そしてその人は、いつもそこに座っている。
 私はその人を何度も見かけている。だから、見たと言うのは今となっては間違えた物言いだ。私は何度もその人を見かけ、そして見かける度に「不思議な人だ」と飽きもせず、つくづく思うものだった。
 私はアルバイトで、ここ二か月は毎日のように教会に通っている。だから何度もその人を視界に入れつつも、どうすることも出来ずにいた。それはさながら、毎日毎日陽が昇っては暮れ、あるいは月のそれを観測するようなものだった。手が届かない、なんてことは無いのだが、如何せん私の手が届いて良いのかさっぱり分からない。迷っているうちに、もう二か月だ。
 さすがに馬鹿げている、と思った。そう、段々と強まり決意に変貌した。私はあの人に話しかけてみる必要がある。あの人が何なのか、知る必要がある。
 その決行日が強烈な斜陽差す、その瞬間だったわけだ。
 私はつかつかとその人に歩み寄った。広々とした教会には、私とその人しか居なかった。
 いつもと同じ、教会の端っこに腰掛けるその人は、今日は本を読んでいる。夕暮れから夜の教会の閉館前にここで過ごしているその人は、別にいつも本を読んでいるわけじゃない。ぼんやりステンドグラスを眺めている時もあれば――いや、いつもそうだ。今日はどうして本など読んでいる? 珍しい……。
 あるいは私がその人に今日話しかける気になったのも、その人が本を読み始めたせいかもしれない。無意識で、私の欲望がついにスイッチを押し切るまでに刺激されていた、というのは考えられる可能性である。
 私は、その人のすぐ横に佇んだ。そうすれば、顔を上げるだろうと算段した。
 そして予想通り、その人は初めて、私に向かって顔を上げた。何度もお互いに存在は認識していたはずだが、こうして面と向かうのは二か月で今日が最初なのだ。
 果たして、その人はただ黙って……私と目を合わせた。
 それで充分なのだ。その人の瞳は、深い夜の色をしている。だがその中に、まるで輝く月のような、何かが見える。光り輝いているわけでもないのに、ともかく、その人には何かしらの吸引力があって、それがずっと私を不思議に思わせていたに違いなかった。
「……どうも、こんにちは」
「こんにちは」
 声は、意外なほど淡々と返って来た。いや意外なのか? いや意外だ。何しろ、私が話しかけたことに、その人は全く驚いていない。まるで予想通りみたく、まるで見通していたみたいに――私を見ている。観ている。
 それに、ああそうだ。私は初めて、その人が男性だと気が付いた。深い森の奥、唐突に現れた木々の隙間から差す月明かりのような、そんな声色をしている。落ち着いているのに、心の隅々まで響いて震えるような、重厚とした心地良さを伴って。
 やはり普通じゃなかった。この人は。不思議な人だ。私は自らの二か月にわたる認識が間違っていなかったことに、自分でも驚くほど深い感慨を覚えた。平たく言ってしまえば、彼との初めての会話に感動してしまった。
 私は用意していた言葉も忘れて、新しく言葉を探し始めた。何をどう切り出せばよいものか……私は、彼の持つ本に目をやった。知っている本だ。
「カフカ……」
「ああ。審判だよ」
 彼はそう言うがその文庫本の表紙には、訴訟と書いてある。訳が物によって違うのだ。一般的には審判の方が多いから、彼はそう言ったに違いなかった。私を気遣ったのだろう。
「それ、未完の作品ですよね」
「カフカなんてそんなものだろう」
「そうですね……」
 あるいは、カフカに限らず物書きはそんなものなんじゃないかと、私は思っている。現に私がそうだ。形にならない作品、アイデア、そのほうがずっと多い。さながら夜空の星を眺めるように、私たちはそのほとんどの名を知らないものだ。
 だが、そんなことを脳裏に過らせていたのも束の間のことだった。
 彼は、こう言ったのだ。
「君はどんな話を書くの?」
 彼は深い夜の瞳の一切をそのままにしているが、私はそうは出来なかった。
「え? なんで」
「ミステリーかな。そんな気がする」
 確かに、最近書いていたのはその通りだ。ジャンルにこだわるつもりは無いが、順序が論理だっているものを書くのは、ある意味で楽だった。プロットに準拠しつつも違和感なく文章を綴るのには、未だ慣れないものがあるが。
 しかしそんなことは、私は彼に話していない。そもそも挨拶すら今が初めてだ。雇用主である教会の管理者には、バレているが……そこからだろうか。
 混乱した頭に、たった一つの光明を見出した気がした。私は少し冷静になって、手の中の汗を握りしめた。
「ええ、まあはい……」
「そう。すごいことだね」
「いえ、言われるほどのものじゃないですよ……時々、ちょっと我に返りそうになる時は、ありますけど……」
「我に返るね。なるほど」
 彼はそう言うと、何か含みのある面持ちで、ふふっと小さく笑った。笑うところを見たのは初めてだった。この人笑うんだ、なんて感想が心の中に自然と湧き出る。
「じゃあ、僕のことはメルセニウスにでもするといいよ」
 彼は笑いながら言った。意味が分からなかった。ていうか、僕なのか。彼の僕と言う一人称には、取り繕うような淀みが無かった。社交辞令で言っているのではない。彼は普段から僕なのだ。
 怪訝な私に、彼は続けた。
「僕の名前だよ。メルセニウスにするといい」
「……はあ、分かりました」
 彼はメルセニウスとなった。
 メルセニウスは、どこか影のある憂鬱そうな面持ちで、銀の腕時計を見やった。それから一人納得したように、自身の隣の席を軽く叩いた。ここに座れと、示していた。
 私はメルセニウスの隣に座った。メルセニウスは線が細いが、足も背も私を優に越している。前の座席の下に消えている彼の革靴の輪郭を、私は想像した。足元はコントラストの激しい暗がりで、夜目を利かさなければいけなかった。
 そう言えば、メルセニウスはいつも小奇麗な風体をしている。私の観測だけでも毎日のように夕暮れに教会に顔を出す意味不明な生活スタイルなのに、なかなかどうして清潔感があった。往々にして糊のきいたスラックスやストレートパンツに、質素なシャツを組み合わせ、綺麗に着こなしている。だがどこかの会社員にはとても見えないし、何よりそれじゃあ教会に来られない。少なくとも普通の職種には就いていないはずだ。夜勤だろうか? それはあり得る。彼には太陽の下の活動が、何故だか驚くほど似合わない。想像できない。
 それに髪型。私がメルセニウスを性別すら断定できなかったのは、彼の少し変わった髪型のせいだった。襟足だけ長い髪は、確かウルフカットと言うのだったか。お洒落には疎い私だが、彼は男とも女とも見て取れる髪に、顔立ちをしている。要するに超がつくほど中性的で、本人も自覚してそのように振舞っている感じがする。
 私はメルセニウスの横顔を見上げた。流れるような滑らかな頬は蒼白く、私より頭一つ分以上は上にある。彼の声が降ってくる。
「君、ネズの木の話は知ってる?」
「グリム童話のですよね?」
 なかなか残酷な話だったように思う。再婚した家族の話だ。夫の連れ子だった男の子を疎ましく思った継母が、男の子の首を切断して殺し、その罪をあろうことか自身の実の娘に被せ、共犯とする。娘は義理とは言え兄を慕っていたので、嘆き悲しむが、仕方なく母親の言うことに従い、なんと彼の死体を切り刻んでシチューの具材とする。帰ってきた父親は夕食のそれをうまいうまいと食す。あとはまあ色々あって、その継母は罰を喰らって死に、男の子はなんと生き返るのだが。要するに、ハッピーエンドだ。おとぎ話らしい。
 しかしグリム童話とは言えメジャーな作品とは思えない。ましてや、唐突に出す話でもないだろう。メルセニウスは、腕を組んでリラックスした様子でいる。何を考えているのか、傍目には推し量れない人だ。
「そう、グリム童話の。さすがは小説を書いてるだけあるね。ほとんどの人は聞いたことも無いはずだ」
「メルセニウスさんだって知っているじゃないですか」
「たまたまだよ」
 本当にそうだろうか。メルセニウスには、真実と虚構を同列に語っていそうな、そんな雰囲気があった。私に判別がつかないだけと言えば、そうなのだが。
「どうしてネズの木の話を?」
「話しかけられたら、聞いてみようと思ってたんだ」
「……私に、ということですか?」
「ああ」
「話しかけられるのを待っていたんですか? 私に?」
「ああ。間に合って良かった」
「間に合う?」
「あと三〇分で用事があるんだ。とは言え、五分とかで終わると思うけど。たかが五分で終わる用事を三〇分も待つなんて、最悪だ」
 メルセニウスはそう言うと、なんともまあ優雅に溜息を吐いた。成分の九割が高貴で構成されていそうな溜息だった。
 しかし、その高貴な振る舞いに対し、言っていることの半分は意味不明だ。ちぐはぐと言うか、前後の脈絡が無い。
「用事を待つためにここにいるんですか? 毎日見ますが」
「いや、待っているのは今日だから。それに五分で終わるのか、ちょっと不安になって来た。終わらないかもしれない」
 メルセニウスは時間が気になるのか、再度腕時計のある左手首を持ち上げた。それからじっと、考え込むように見ていた。その五分の用事を済ませた後も、きっと別の用事があるんだろう。仕事だろうか。尋ねようとした時、彼が左腕を元に戻した。また腕を組み始めた。
「ネズの木の話はさ、残酷だよね。童話とは思えない」
「昔の童話なんて、大概残酷ですよ」
 私は思い出して、例を幾つか上げ連ねた。シンデレラも元は足を切り落としたりする話だったと聞く。身体的な罰に容赦が無いのが、昔の訓話だ。
「残酷だからこそ、ハッピーエンドの良さが際立つってものなのかな」
「そうですね……苦労があるからこそ、報われた時の……カタルシスって言うんですか。あれがより大きくなるんでしょう」
「結果だけに気遣っていれば、なかなか考え及ばないものだね、それは。君は過程を重視するんだね」
「まあ……物書き、ですから……」
 結果だけあれば良いのなら、おそらく小説より絵画の方がいい。とはいえ私が過程も重視するのは、多分小説を書く以上は小説の形を為していなければならないからだ。重視せざるを得ない、と言う方が正しいだろう。私は絵画を見るのも好きなのだ。絵を描く才能があったら、きっとそうしていた。少しずつ陽を弱めたステンドグラスが、やけに眩しい。
「ミステリーか……」
 メルセニウスが呟く。凪いだ面持ちの彼は、そう言って静かに遠くを見始めた。厭味なくらい綺麗とはよく聞く表現だが、この人に関しては綺麗すぎて厭味にすら思えないというのが実情だとしみじみ感じる。同じ次元に居ないからこそだろうか。不思議な人、というのが、ますます募る。
「面白い話をしてあげようか。ああいや、面白いといいんだけど」
 果たして、メルセニウスはそう言った。私が口を開く直前にばかり話し始める。だが遮られると言うよりは、ほとんどするりと入ってくる。私はメルセニウスを見上げて、彼の横顔をじっと見るが、彼はこちらを見ない。どこか遠くを見つめている。
「面白い話ですか。それは楽しみですね」
「話のネタにでもなればいいと思って……それと、僕自身の暇つぶしかな」
 メルセニウスははらりと目を伏せると、膝の上のカフカ・訴訟を見た。暇つぶしならそっちを読んでもいいかと思うが、あるいは。
 メルセニウスは顔を上げると、やはり遠くにぼんやり目をやりながら、その話を始めた。
「殺人鬼の噂。知ってる?」
 意外な話を始めたと思った。もっと神秘的な話題かと予想していた。
「殺人鬼? いえ……」
「そうなんだ。まあ、ちょっと特殊だからね。そんな噂は」
 メルセニウスは特に表情も変えない。
「それに、別に死体も被害者も存在してないらしい。ははっ、馬鹿げてるよ」
 なるほど、確かに馬鹿げている噂だ。死人が無しに人殺しが成立するものか。
 しかし、それは前提を弄り回せば、なんとか突破できる難題でもある。
「この街に死人が無いだけとかじゃないです? 別の街で殺していた殺人鬼が、この街に越してきたとか」
「ああ、それは考えられるねえ……」
 メルセニウスは意味ありげに微笑んでいる。ニヒルに、とも言うのかもしれない。
「違うんですか?」
「話によればね……殺人鬼は別に越してきたわけじゃないんだって。ちゃんとこの街に住んでるらしい……あ、被害者もだ」
「被害者は居ないんじゃ……」
「うん。まあ、平たく言えば、『表向きには』って奴だよ」
「ああ、なんだ」
 要するに、事件にはなっていないということだ。まあありがちだ。少しがっかりする。殺人など本屋に行けば数百数千と起こっているものだ。紙と空想の上で。ちなみに、私の頭の中でも起こっている。
 それに、以前の懺悔室でのそれもあった。今更、殺人と言う単語如きでは心動かされそうにない。慣れとは恐ろしいものだ。
 メルセニウスもまた、あまりドラマチックに語ろうなんて意気込みは有していないようだ。彼は淡々と、馬鹿らしいの言葉通りに言う。
「被害者も殺人鬼本人も、影も形も存在しないはずなのに……火のない所に煙は、とは言うけど、今のところは煙が一人歩きするようなものだ……ああそう、君、普通に生活していて、急に煙の臭いがしたこと、無い? お線香の匂いと言ったほうが正しいかもしれないけど」
「お線香の匂いですか?」
 急に話が変わった。困惑しつつも、私は柔軟に対応してやろうと、答えてみる。
「オカルトじみた話ですよね。私はありませんが……」
「そうなんだ。僕はね、最近結構あるんだよ。なんでか分かったりしないかな」
 どうやら私に意見を求めているようだ。物書きだからと言って、別に探偵じみた推理能力は有していないのだが……何しろ私は、フィクションではなく現実にいるしがない物書きという奴なのだから。
「正直全然分かりませんけど……ありがちなことを言うなら、まあ、近くに幽霊が居ると、そういう匂いがするなんて言いますよね……」
「らしいねえ。僕は幽霊信じてないんだけどな。うーん……」
「あとは……これは、線香に限った話じゃないんですけど」
 少し前置いて、私は言葉を続けた。
「例えば、殺人を犯してしまった人のセリフで『血の匂いが消えない』ってあるじゃないですか。あれって、鼻に血が付着しているから、いつまでも血が匂うらしいですよ。手ばかり洗っていないで、鼻も洗えと言う訓話です」
「殺人鬼限定の訓話だね……だけど、その例で言うと、僕の鼻にお線香が付着していることになっちゃうな。煙か燃え滓かは分からないけど」
「線香を鼻にこすりつけたりはしていないんですもんね?」
「もちろんだよ。猫じゃあるまいし」
 メルセニウスはからから笑いつつも、困ったなあと続ける。
「困ったなあ、真相は闇の中と言うわけか。僕の気のせいなのかなあ……同居人も『そんな臭いはしない』って言うし」
「へえ、同居人」
 言い方的に恋人ではなさそうだ。というか、この人に見合う恋人が思い浮かばない。芸能人とか、社長とかも、少し違和感がある。
「友達だよ」
 メルセニウスは端的に答える。それ以上説明する気は無さそうだ。少し残念である。
「ともあれ、殺人鬼の実在に関して僕は懐疑的なんだけど、知り合いが――ああ、同居人とは別のね――知り合いは、『絶対にいる』って言って聞かないんだ。彼女はこの街の実情……特に裏社会に詳しいらしいんだけど、どうにも最近は騒がしいんだって」
「裏社会……ですか?」
「胡散臭いよね。でも彼女が言うから、僕は信じているんだ。虚勢を張って嘘を吐く人ではないから……尤も、殺人鬼の話は除いてね。彼女が言うにはその殺人鬼は殺人の証拠を残さず、事故や自殺に見せかけるから、事件になっていないだけなんだとか。そんな人が、果たしているものかな」
 否定も肯定も出来ない話だ。それに、なんとなくオチも特に無さそうな雰囲気が漂ってきて、私はまた落胆する。その裏社会に詳しいと言う女性には会ってみたいものだが……私は一人、心当たりがあった。もしかしたら、その人は私の知り合いかもしれない。
「僕としては、どうして彼女がそう思うのか、何をもって殺人鬼の実在を確信しているのか、そっちの方が気になるんだよねえ……」
「聞いてないんですか?」
「彼女にもよく分かっていないように見える。彼女の内包する無意識が、彼女にそう思わせているみたいだ。しかし僕でも、彼女の無意識なんか分かりっこないからねえ……」
 メルセニウスはニヒルに笑う。
「ま、殺人鬼の話はそんなところだ。悪いね、思ったよりも、内容がまとまらなかった」
「ああ、いえ……話せただけでも嬉しいです……というか、私の方から話しかけたじゃないですか」
「ああ、確かにね」
 メルセニウスが初めてこちらをチラリと見た。その一瞥は、何故だか私の胸を不穏にざわめかせる――私から話しかけた、そのはずだ。
 その後、取り留めのない世間話で、時が流れて行った。世間話と言っても、どうやら私もメルセニウスも世間的な人間ではない。世間的な人間でない世間的な話は、どこかふわふわとした地に足のつかない概念的なものばかりだった。だが、それこそ楽しいひと時だったとは言える。
 残念なことを挙げるとするなら、私が最も求めている話題――すなわち、メルセニウス本人の話を、メルセニウスが避けていることだった。いや避けている、とは言えないかもしれない。何しろ明確に彼が話を渋っているわけではない。ただ綺麗に避けられている、という感じがする。普通、人と話していれば自身の生活の内情を、ほんの僅かでも切り崩さざるを得ないはずだ。昨日の夕食はあれこれだったとか、この辺りに住んでいる、だとか。だがメルセニウスは、先ほどの同居人という単語以外のなにものの生活感をも、私に漏らさない。結局、彼が普段何をして、どうしてこの教会に通っているのかも、察しがつかない。
 メルセニウスに話しかける前のような、悶々とした不完全燃焼感が募っていく。仕方なく、私は後日にそれを回すことを腹に決める。何しろメルセニウスは、毎日ここを訪れるのだから。明日、明後日、それがダメならその次の日も、チャンスはいくらでもある。
 陽が、完全に落ちかける直前だ。だが入れ替わるように、教会の頭上の明かりが灯る。メルセニウスが、やや邪魔くさそうに、頭上のろうそくを模した電燈を見上げた。思うに、彼は太陽も、かと言って人工の明かりも好まないのだ。
「遅いな」
 メルセニウスが、呆れたように独りごちる。
「人の時間をなんだと思っているのやら……」
「待ち合わせなんですか?」
「……ま、今に分かるよ。来なかったら僕は帰るし」
「はあ……」
 憂鬱そうに組み替えられた足の上で、カフカが行き場を探している。腕時計を見るのも、もう何度目だろうか。
 とは言え、確かに約束の人物は現れた。

「あら、珍しい組み合わせじゃない。どういう風の吹き回し?」

 何を隠そう、どうやら待ち合わせは、この教会の管理者――私の雇用主でもある女性だった。
「遅いじゃないか……」
 メルセニウスが疲れたように、明後日の方を見ながら言う。女性を責めた口調ではあるものの、強く出ることは適わないようだ。この一瞬で、二人の関係性が垣間見えた気がした。
「あら、たった五分じゃない」
「約束の前に到着しているのが普通だと思うけど。十分前とか」
「それじゃあ約束の時間の意味が無いじゃない」
「五分遅刻の場合でもそれは同じだろう……まあいいか」
 メルセニウスが強引に打ち切ったのを、女性の方は、彼が折れたのだと解釈したようだった。勝利に彩られた強気な笑みが、メルセニウスをじっと見つめる。
「相変わらず辛気臭いのね。こちらの質問を華麗に無視なさるところもお変わりなく」
「無視はしてない……偶然だよ」
 そう言って、メルセニウスが私に目配せをした。話しかけたのは私の方だから、説明すべきは確かに、私だ。
「ああ、私が話しかけたんですよ。ずっと気になっていたので」
「あら貴方が」
 意外そうに、女性が私に目を見張る。そこまで驚かれると、コミュニケーション能力の過小評価を疑ってしまう。私とて、覚悟を決めればそれなりのことはするのだが。
「けれど、貴方が……と言うのは、少々疑問ね」
 よく分からないことを女性は言って、意味ありげにメルセニウスに顔を向けた。メルセニウスはまだ、女性から顔を逸らしている。
 これは――つまり、やはり、そういうことだったんだろうか?
 考える間もなく、女性とメルセニウスの会話が、また始まってしまう。
「早く終わらせよう。僕には時間が無い」
「どうせお家に帰るだけじゃない」
「僕は帰らなくちゃいけない」
「そんなにお友達の機嫌を損ねたくないの?」
「ああ」
「ふぅん」
 気のせいだろうか。女性の表情が、一瞬陰った感じがした。
「わたくしにはそうやって意地を張るのにね……まあいいわ。時間が無いのはこちらも同じこと。始めましょう」
 女性が手招いたのに合わせて、メルセニウスは立ち上がった。分かってはいたことだが、私はその高さに軽く仰け反ってしまった。二人が教会の奥の、一般人立ち入り禁止の部屋に入っていくのを、私は遠巻きに眺める。メルセニウスは五分の用事だと語っていた。軽く話をするだけ……だとは思うのだが、如何せん、二人ともなかなか風変わりな人間だ。それに、ただの会話なら通話でもメッセージでもいい。何を話すのだろう?

 十分後、どうやらメルセニウスだけが部屋から出てきた。彼は腕時計を確認しながら、やけに早歩きで教会の出口へ歩き出していた。一度だけ、軽く私の方を見て目を合わせてきたが、それも一瞬のことだった。彼はすぐに、カフカを携えて出て行ってしまった。
 私は、あわよくばの期待を胸に、二人が居た部屋に行ってみることにした。女性とは私も顔見知りだし、何より私はここの従業員なので、その部屋には入ったことがある。教会なので重苦しい名前が付けられていた気がするが、平たく言えばただの控室だ。
 私は、特に趣向も無い質素な木製の扉をノックした。中からはすぐさま、「お入りなさい」と女性の声が返って来た。入っていいらしい。ラッキーだ。
 扉を開けると、中では女性が、何らかの書類を片しているところだった。何の紙か好奇心に任せて見ようとすると、なんと女性に睨まれた。見てはいけなかったらしい。多分その書類を、二人は見ていたのだと思うのだが。
 しかし、部屋に入ってしまった以上は、質問をしないと気まずい。玉砕覚悟で、私は尋ねてみることにした。
「何をお話されてたんです?」
「あら、気になるの? 聞かない方がいいわ」
 はぐらかされている。あらかた綺麗になったローテーブルには、メルセニウスの痕跡か、コーヒーが入っていたであろうマグカップだけが残った。それを何となく認識しながら、私は更に、博打を仕掛ける。
「殺人鬼の話とか?」
 果たして、私は大当たりを引いたらしい。
「あら、貴方……」
 女性は目を丸くして、私を見ている。
 だが、それも束の間のことだった。
「なるほど、彼が話したのね……」
「殺人鬼が居るんですか? この街に?」
「貴方には関係が無いわ」
 私は確信する。メルセニウスの言っていた彼女と言うのは、今目の前にいる教会の管理者、この女性のことだったのだ。
 二人で、街の殺人鬼について話していたんだろうか。だとすると、私の認識以上に、彼らはその問題を深刻に捉えている。子どもの秘密会議ではないのだから。
 しかしそうなると、一層メルセニウスの正体が気になるというものだ。私は一つ良いことに思い至る。彼の正体なんて、別に本人に聞かなければいけないわけではない。
「あの、メルセニウスさんって、何者なんですか?」
「メルセニウス? ああ、彼のこと? 何よそのメルセニウスって」
 酷く鼻白んだ顔で、女性は私を見る。私のせいじゃないのに……。
「あの人が、メルセニウスって呼べって」
「ふぅん、まあそんなところでしょうね。本当に、徹底した秘密主義なんだから」
「秘密主義……」
 会話の節々でも感じていたことだが、やはりそうだったのか。何も偽名を名乗らなくても良さそうなものではあるが。
「メルセニウス……言いづらいわね。彼は、言うなればアドバイザーよ。新しい助手ってところね」
「アドバイザー? 助手? 事件の?」
「そう。なかなか賢い男なの。わたくしが買ってるのはそこじゃないけど」
 今日何度か見受けられた、あの意味ありげな笑みをまた浮かべて、女性はふふんと口元を隠す。
「じゃあ何を買ってるんです?」
「見ての通りよ。顔が良いの」
 女性は、確かにそう言った。少しも淀みなく、堂々と。
「……ルッキズム……」
「違うわ」
「いや違わないでしょう」
「だから違うの」
 苛立った様子で、女性が私を睨む。前進が反射的に委縮する。二か月の間柄とは言え、彼女は私の上司だ。それも彼女は、あまり優しい性格とは言えない。むしろパワハラ気味な嫌味や暴言を、私は金で黙らされている。金払いだけがいいのだ。
 女性は大仰な溜息を吐く。メルセニウスとは全く違う、見ていて不愉快な溜息だ。
「別に好みの話をしてるんじゃないわ。違うの。根本から。顔が良いって言うのはね、要するに人心掌握に直結するの。貴方だって、顔が良い方が得するって経験上知ってるでしょ?」
「まあ……それは……身をもって……」
「あの男はね、顔が良いの。それでいて、厭味も無いの。それがどんなに驚異的な意味を持つか、まだ分からないの?」
 彼女の呆れ返った物言いに、さすがの私もムッとした。別にそう難しい話でもない。
「さっき言ってた人心掌握に直結するって話ですよね。要するに全人類に好かれやすいってことだ」
「はい五三点」
「ゴミ……」
「あなたのはまだ、今一歩足りてないわ。それはただの前提――貴方は、身をもって体験したはずなのにね」
 今度は憐れみをもって見られている。一体何を、言いたいんだろうか?
 彼女のアドバイザーを務める全人類に好かれやすい顔のいい中性的な男……彼の正体、彼女が彼を買っている理由。
 彼女はようやっと、決定的なことを述べる。
「貴方、自分から話しかけたって言ったわね――多分違うわ」
 記憶違いでさえなければ、事実としてそんなはずはない。
 だが私は、その意味を知っている気がした。身をもって。
「……あの人が、私にそうさせたと?」
「十中八九」
「……そんなこと、できますかね? 私、何もされてないですよ」
 メルセニウスはただ座っていただけ。二か月にわたって。その間、私に対して、何らの働き掛けもしなかった。そのはずだ。
「貴方がそう思っているだけ」

 果たして、そんな会話をした翌日も、メルセニウスは同時間帯に現れた。今日も今日とて最後列の椅子に腰かけ、何やらぼんやりとしている彼に、私は話しかける。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは」
 メルセニウスは私に一瞥だけくれた。それで充分なのだ。
 私はメルセニウスはどう出るか、気になって少し待ってみることにしていた。もしメルセニウスが彼女の言う通りの人間ならば、私の思考回路などすっかり見通して、その上で言葉を選ぶに違いない。
 メルセニウスは、今日は開いた天窓から見える空を見上げている。急降下した鳥が、瞬く間に木々の間を通り抜けて行った。もうすぐ至る夕暮れに、鳥も家路についている。
 しかし、予想に反しメルセニウスは何も言わない。黙って雲の流れるのを見ている。いい加減、私の方が飽きてきた。
「……あの」
「僕の勝ち」
「えっ」
 メルセニウスが悪戯っぽく、小さく声を上げて笑う。どうやら本当に、私の意図を見透かしているようだ。
「彼女があること無いこと言ったんだろうね」
「あることあることじゃあないんですか?」
「いいや、彼女は僕を買い被っている……そのくせ、全然僕の意見を取り入れてはくれないけど」
「殺人鬼の話ですか?」
「そんなものはいないって言ってるんだけどね」
 メルセニウスは呆れたように言うと、リラックスした様子で足を組みなおし、やや後方にふんぞり返るように、体勢を変えた。腕を組んでいるのは相変わらずだ。
 私は昨日の彼女の言葉を思い返していた。メルセニウスの横顔は、涼しげな夜の月を思わせる。中庸で曖昧で謎めいた、それでいて美しくはある風体に、人は心を奪われる。
 初手から転がされたとあれば、私は最早、裏を掻いてやる気も無くしてしまった。どうせ勝負にならないなら、さっさと白状して円滑に話を進めた方がいい。
「あの人が、メルセニウスさんは人を操るのが上手いんだって言っていました」
 メルセニウスは品のいい微笑で、その顔を彩る。
「ふふ……そんなわけないのに。言っただろう、買い被りだ」
「嘘だあ」
「嘘じゃない……僕は別に、何もしなかったろう」
「そのはずなんですけどね」
「ただ座っているだけで人を操れるなら、僕は今頃権力者にでもなっている……ここには居ない」
「ああ、それなんですが」
 私はそのことについて、彼女から既に聞いていた。彼の人となりについて。
「実はあの人が、『彼、野心がこれっぽっちも無いのよ。年がら年中、朴念仁みたいに穏やかに過ごせればいいんですって。馬鹿みたい』って言ってました」
「馬鹿か……はぁ」
 メルセニウスは力なく溜息を吐く。彼女のストレートすぎる悪口に対し、言い返す気も起きないらしい。なるほど、男女の性差に加えて体格差があっても、この人が彼女に適わないわけだ。武士に対する華族とでも言おうか。力の種類もベクトルも違うが、結局暴力では敵わない。そんな印象だ。
 とは言え、それでメルセニウスの人心掌握力とでも言うものが、価値を低くするわけじゃない。私は彼から目を離さず、その一挙手一投足を瞳に収めようとする。言うなれば、彼は絶好のネタだ。殺人鬼の話より余程興味深い。
「困ったな……」
 私の思惑に勘付いてか、さっそくメルセニウスは愚痴を零した。
 彼女は昨日、彼についてあれこれ教えてくれたのだが――私への優しさと言うより彼を困らせたい意地悪心だろうが――それによると、メルセニウスは押せば何とか出来る人らしい。人の心にするりと入り込む天性の才を有しながら、それを生かす気がまるでない。だから彼女は、その強引な性格で、彼をアドバイザーとして利用しているのだという。

 昨日の彼女はこう言っていた。
「彼は確かに人心の機微に聡い……わたくしの心だって見透かしているかもしれない。けれどそんなのは、見透かされた上で、わたくしの心が勝っていれば良いだけのこと。わたくしはその上で、彼を支配するの」
 だそうだ。なんともまあ強気な人で、さながら太陽のように自身に燃えている。月のようなこの人では、そりゃあ勝ち目がない。

 私は彼女ほど強気にはなれないし、先ほどは出鼻をくじかれるなどしたが、それでも攻撃に転じることは、今からでも遅くない。そのために、一日かけて色々と考えを巡らせもしたのだから。
「まずはお名前を」
「まるで取材だな……物書きらしいことをするね」
「それは関係無いですよ。いやあるかもしれませんが……隠されたものを知りたくなるのは当然じゃないですか」
「それで僕を暴こうと……ふ」
 何が面白いのか分からないが、メルセニウスはまた、微かに口元を緩ませる。そして少しだけ、ほんの少しだけ……静かに目を瞑り、瞳を開けると、彼は続けた。
「生憎と、押された程度じゃ口を開く気にはなれないかな……今後を考えてもね、それで僕を何とか出来るんだと思われちゃ困るから」
「え……そこを何とか……」
「しないよ」
 メルセニウスの語気は、思いの外頑固だ。私では、どうやら彼の秘密主義を突破するのは難しいらしい。
「それじゃあせめて、普段何をされているのかだけでも教えてくださいよ」
 すると、メルセニウスが珍しく、驚いた顔をした。怜悧な瞳が小さく見開かれ、深い夜の瞳が私を見つめている。
「へえ……彼女、それは言わなかったのか」
 どうやら彼女の行動を予想外に思ったらしい。しかし、その数少ない驚き顔もすぐに元の余裕気な笑みを湛え始める。
「まったく、子猫みたいに可愛らしいお嬢さんだ。僕を困らせてくれる」
 メルセニウスの口ぶりは、何やら愉快そうだ。彼にしか分からない楽しさというものが、あるに違いなかった。何だかんだ彼も、彼女のことを嫌ってはいないのかもしれない。
 それで、メルセニウスの普段の仕事については、結局話してはくれないままだ。私は一体、この人の何なら知れるのだろうか。名前はダメ、仕事もダメとなると、これまで傍観していたのと、情報量ではほとんど変わらないままだ。試しに今日の夕飯の予定でも聞いて、そこから話を広げるというのは――無理だろうな、と思う。無理だろう。メルセニウスには口を滑らすという概念は無い気がする。その心は重い鉄の扉のように固く閉ざされ、つついた程度では揺らがない。それこそあの彼女のような、規格外の何かが無ければいけない。
 仕方ない。メルセニウス本人を探るのはやめよう。
 代わりに、私は殺人鬼の話を聞いてみることにした。その話ならば彼も自ずと口にしている話題なのだから、答えてくれるはずだ。それに私は、少し気になっていることがあった。
「メルセニウスさんは、殺人鬼の実在に否定的なんですよね?」
「まあね」
 メルセニウスは軽い調子で答えるも、そこには確信に似た何かが潜んでいる。私が気になっているのは、何を隠そうそれだ。
「どうして居ないと思うのです? もしかしたら、とは思わないのですか?」
「そう思い始めたらキリがない。論理的じゃないよ」
「けど、あの人がそんなにも情熱的に信じているなら、むしろいるかもと思った方が自然な気がしますけど」
 どれだけ荒唐無稽でも、友人が熱を帯びて語っていたら、信じたくなるのが人間心理だ。カルトやねずみ講の勧誘も、旧友からの連絡で陥ってしまうケースがある。
 メルセニウスは、含みのある笑みを零し、少し座る位置を調整した。彼の長い足が再度組み直され、前の座席の背もたれにつま先が軽く当たる。今日はまだ少し明るいので、彼の靴がきちんと皴の一つまで確認できる。綺麗に手入れされている革靴だ。上に引っ張られたスラックスの裾から、黒い靴下と、色白のすらりとした足首が覗いている。見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は見入っていた目をそれとなく逸らした。
「彼女が言っているのはさ、証拠を残さなければ殺人事件に発端しないってことなんだけど、僕としてはまず、それがあり得ないかなって思うんだよね。この時代に証拠を残さないなんて、不可能だよ」
「科学捜査の発展した現代ではってことですよね」
「ああ」
 推理小説家も、如何に警察の科学捜査を介入させないで古き良き探偵の活躍を描くかを思案する時代だ。クローズドサークルとかやりようはあるが、それは結局、推理より科学捜査したほうがいいじゃん、という事実を否定してはいない。
「でも警察の捜査方法に詳しければ、かいくぐれるかもしれませんよ」
「そうかな……」
「ええ、例えば殺しの痕跡を隠滅すべく徹底的に掃除をするとか」
 実際、私はそういう推理小説を読んだことがあった。犯人視点で描かれる倒叙ミステリーで、主人公は元警察官の現探偵だった。最後は別の探偵によって証拠を見つけられ逮捕となるも、なかなか面白い設定だと思って記憶に残っている。
「僕は……正直、無理だと思うんだよね。手間がかかり過ぎるだろうし、そこまでして殺人なんてして、一体何になるのかな……自殺や事故に見せかけるなら、金銭を奪うわけにも多分いかないだろう。手間とリスクに対して、メリットがあまりにも無さ過ぎる」
 いつの間にか、メルセニウスがげんなりとした表情をしている。さながら月が、雲上に隠れるように。月は朧ろいでいる。
「メリットとかの問題じゃないんじゃないですかね。いわゆるシリアルキラーってやつでしょう。常識じゃ測れません」
「シリアルキラーか……それこそ、現代社会じゃ絶滅危惧種だ」
「それもそうですね……」
 歴史上、シリアルキラーと言われた大量殺人鬼は存在する。だが昨今では聞かないかもしれない。科学捜査の発展ゆえろうか。その先を、メルセニウスは滔々と説明し始める。
「シリアルキラーって、彼らは類い稀な頭脳で捜査をかいくぐったみたいに思われがちだけどさ……まあ実際、昔はそうだったかもしれないんだけどさ、今じゃ正直、時代が彼らを追い越したというのが事実だよね。彼らの黄金時代だったのはもはや数十年も前の話だけど、その時代は監視カメラはおろか、戸籍管理だって杜撰だった。狙われた人間は社会的立場の低い……いわば死んでもバレにくい娼婦やまだ差別が顕著に残っていた黒人とかで、そもそも殺人が明るみに出る可能性が低かった。アメリカだと国土が広くて、州を跨げば法も警察体制も違った……シリアルキラーに都合の良い時代だった――今の時代、同じことを出来るわけは無い」
 メルセニウスらしくもなく、長い話だった。やや驚いて見つめてしまう私に、メルセニウスが我に返ったように気が付く。メルセニウスは、恥ずかしそうに明後日の方を眺め始める。
「シリアルキラーの実情に詳しいんですね」
「やめてよ変な言い方するの……別に詳しいと言うほどじゃなかったでしょ」
「いえ大分詳しかったですよ。好きなんですか? そういうの」
「違うよ……」
 メルセニウスは本気で嫌そうに否定する。
「昔、何かでシリアルキラー特集みたいな配信があって、それを見たことがあったんだ。へえそうなんだって思って、覚えているんだよ。好きなのはむしろ、彼女の方だ」
「ああ、それは確かに」
 彼女ならシリアルキラーの特徴とか、謎めいた事件とか、そういうものが大好きだ。
「まったく、酔狂としか言いようがないお嬢さんだよ……」
 それきり、メルセニウスは話し疲れたそうで、めっきり黙り込んだ。彼の隣で、私は日が傾くのを見送っている。眩しい。頭の中では、ふと昨日の会話がまた蘇って、反芻していた。寡黙なメルセニウスと違い、教会の管理者たる彼女はよく喋るのだ。

 彼女はそう、メルセニウスについてこう言っていた。
「それにしても、あの唐変木が貴方に興味を持つなんてね。何が気になったのかしら」
 今度は唐変木か、なんて心中で思いながらも、私は違うことを言う。
「別に私自身については、特に聞かれもしなかったですよ。一応、こちらから話しかけましたし」
「だからそれは違うって言ってるじゃないの。貴方が話しかけたんじゃないの。彼が貴方に話しかけさせたの。何度言えば分かるのよ。頭悪いんだから」
「いやそれはまあ、もう分かりましたから。操られてたんですよね私は、はいはい」
「はいは一回よ――それはそれとして貴方、まさか操られたのが最初だけだと思ってなぁい?」
 ふふんと笑って、彼女はねちっこく私を見つめたものだった。私はその言葉を、深く思考せざるを得ない。
「残念だけど、貴方は認識を反転させる必要があるわ」
「……と言うと?」
「貴方が彼に関心を持ったのではない――彼が貴方に関心を持っていた。だから話しかけさせた」
「あの人が私に……?」
「そう、だから、何が気になったのか、わたくしとしてはそれが気にかかるわ。他人に興味がある質でもないのに」
 彼女はそれで、思いの外真剣に、メルセニウスの考えに想いを馳せていた。私もそこまで言われると、自分の何が……と考えていた。安易に考えるなら、二か月も同じ施設内に居たのに一度も話さなかった方がおかしい気はする。しかし彼女は、彼ならばそんなことを気にしないと言うのだ。
「他人に欠片も興味が湧かない人なのよ。何度顔を合わせたところで、名前すら覚えようとはしないんじゃないかしら」
「へえ……」
 確かに、彼が人と一緒に居るところを見たことは無かった。一度も。たった一人で教会を訪れては三〇分ばかしぼんやりして、何もせず帰る。それが私の観測するメルセニウスだった。だからこそ、同居人という言葉が予想外だったのだが。
 しかし唐突に、私は一つの事実を思い出した。
「ああ、分かりました。そう言えばメルセニウスさん、私に何を書くのか聞いて来たんですよね。ミステリーとかかなって。要するに物書きを珍しがっただけじゃないですか?」
 シリアルキラーと比較すれば全然いる方だが、そうほいほい観測できるものでもないのが物書きだ。なかなかどうして文字を綴るだけなのに、多くの人は小説を書かないらしい。私とは人生の費やし方が異なる人の多さに、時折面食らってしまう。私が考え、生活ひいては人生を捧げてタイピングしている間の時間を、彼らは友人と遊んだり旅行に行ったりすると言うのだ。当たり前のことなのに、実を言うと私は本当に、そのことに驚いてしまう。ほとんどの人間は小説を書かないし、文章も考えないのだ――意味が分からない!
 それは置いといて、真実を見つけた気になっていた私に、彼女は果たしてこう返答してきた。
「それだと、まず彼が貴方を物書きだと認識していたという前提が必要になるわね……まあ、驚くことではないか」
 いや驚くことだ。私は、彼女の物言いに引っかかってしまった。
「え、ちょっと待ってくださいよ――あなたは彼に言ってないんですか?」
 彼女は私が驚きに揺らいでいるのが愉快なのか、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「なんでわたくしが、貴方の話なんか彼にするわけ――してないわ」

 今となっては、彼女の言う通り、驚くほどのものではない。人を操ると言うなら、まず人を理解していなければならない。彼はどういうわけか私を物書きだと見透かしたうえで、私をまるで超能力みたく心理的に誘導してみせたのだ。この、隣でぼんやり空を見ているだけの人が。
「メルセニウスさん」
「…………え、呼んだ?」
 そう、この名前を呼ばれてさえワンテンポかツーテンポ遅い彼が。
 その上、腕時計で時間を見ては、悠然と立ち上がった彼は。
「ああ、もうこんな時間か。今日は現れないみたいだ。帰ろう」
「いやあの、私が呼んだじゃないですか」
「明日でいいんじゃないの」
「えー……」
 マイペースな人だ。彼はすぐ横の通路に出ると、そのスタイルのいい体から繰り出される速足で、出口へ一直線に歩いて行った。速足ではあるが、何故だかせかせかして見えない。
「ああ、ちょっと!」
「なんだい」
 数メートル先で、メルセニウスは立ち止まり、振り返る。
 出口からの淡い光とステンドグラスから差し込む斜陽に挟まれた彼は、さながら全身が光に包まれている。私にさえ眩しくて、彼の姿はよく見えない。
「僕も君もどうせまた明日会うんだし、なんなら明後日もあるだろうし、それでいいんじゃないの?」
「今日聞けることは聞いておかないと!」
「いい心がけだね。明日も太陽が昇るかは分からないって、そう言ったのは誰だったかな」
 メルセニウスは独り言のように述べ、冗談か何かだったみたいにくすくす笑い声を漏らした。
 私が聞いておきたいことは、ただ一つだ。
「あなたは、どうして教会に? 今日も、きっと明日も明後日も」
「ただの散歩」
「嘘ですよ」
「嘘じゃないんだけどな……」
 困ったような笑みも、今は逆光でよく見えない。
 だが、彼がこちらに歩み寄って来るのは、足音と輪郭で分かった。
 メルセニウスが、私の横に立っている。微笑んで私を見降ろしている。さながら天上の満月だ。
「これ、あげるよ」
 彼が私に見せたのは……名刺だ。白くて質素な紙切れ一枚。
 だが私がずっと欲していたものでもある。手が震えそうになるのを、堪えて受け取る。
「――え、」
「はは、言っておくけど、僕は助手だから。それに訪ねてこないでね。これは僕の最大限の優しさ」
「あ、ああ、はい。分かりました」
「どうせここで会えるんだしね」
 メルセニウスはそう言って、今度こそ出て行った。残された私は、名刺をじっと見つめる。

 紙には、探偵という単語が書いてある。

 入れ違いで、彼女が入って来た。彼女はきょろきょろ辺りを見渡し、少しがっかりした面持ちで呟く。
「あら、もう帰っちゃったの」
 もうと言いつつ、メルセニウスは時間に正確だ。遅れたのは彼女の方である。
「ついさっき帰りましたよ。まあいいんじゃないですか。どうせ明日もあるんですし」
「今日見て欲しい資料があったの! もう、気分が台無し……!」
 それでも悪いのは彼女の方だと思う。そう言ったら減給にされるが。
 だがふと、彼女は私の手の中を見やる。手の中の名刺を。そして、嘲笑の意図が見え隠れする面持ちで言う。
「あら、またはぐらかされたの。残念ね」
「戦利品ですよ」
「肩書きなんて意味無いわ……どうせまた、何の質問にも答えてもらってないんでしょ?」
「それはまあ……」
 名刺には、私の意識を逸らす目的でもあったんだろうか。どこまでが彼の掌の上か、皆目見当がつかない。
「彼、何者なんですか?」
「その問いには意味が無いわね。肩書きを答えたところで彼を表すには不十分で、そのくせ彼自身を表す言葉が彼自身によって隠されている。強いて言うなら助手でしょうけど、助手なんてのは似合わないわ」
 実を言うと、それは私も思っていた。助手の器に収まる人間じゃないだろう。
「まあいいんじゃない?」
 今日、何度目だろうか。彼女はらしくもなく投げ出すように、そう言ってのけた。
「どうせ明日もあるんだから。彼は逃げも隠れもしない。チャンスはいくらでもある」
「チャンスがあっても、実力が伴ってないと……」
「人事を尽くして天命を待つってやつね。まずは踊らされてないで、自分の頭で考えてみなさいってことよ」
 この人にしてはなかなかいいことを言うものだ。私はようやく諦めがついて、今日のところは日給をぶんどり家路につくことを決める。
 それにしても、なかなか数奇なものだ。
「あの、探偵ってそう何人も居るものなんです? 同じ街に」
「結果として居るんだから、居るとしか言えないでしょ。観察者効果ってやつかしら」
 らしい。なかなかいい街、いい職場を見つけたものだと、しみじみ感じる。作家冥利に尽きる、だ。

いいなと思ったら応援しよう!