私の「笑い」の基本となった理論
前回は、私の「笑い」の大前提となった桂枝雀師匠の「緊張の緩和」をお話しさせて頂きました。
今回は、私の「笑い」の基本となった考え方を紹介させて頂きます。
この考え方は、基本的な「笑い」に当てはまると思いますが、センスの問われる考え方でもあるので、なかなか実践は難しいです。
「笑い」とは「意外性と共感」
私が高校時代にお笑い芸人さんの話を貪るように聞き、私なりに解釈し、整理した結果、「意外性と共感」というのが「笑い」ではないのかなと結論に至りました。
しかし、「笑い」とは奥が深いもので、「意外性と共感」だけで「笑い」を全て説明することはできません。
ただ、7割~8割はこの「意外性と共通」で説明できるような気がします。
あと、「意外性と共通」は私独自の理論だ!と学生時代に胸を張っていましたが、放送作家の高須光聖さんが「笑い」とは「共感と意外性」とTEDで発表しているのを知り、私独自の理論ではないと気づかされました。。。
高須さんの理論と私の理論では微妙に少し違いがあるので、説明させてください。
「意外性と共感」を両立させる
高須さんの「共感と意外性」では、「共感」と「意外性」を分けて説明されていましたが、私は「共感」と「意外性」は両立すべきものだと思っています。
例えば、あるあるネタですが、当たり前のことを言っても笑えません。
「歌いたいときカラオケ行く」
「共感」はしますが、あまりに当たり前すぎて「意外性」がないです。
ここに、「意外性」を加えるなら、
「店員来たとき歌やめる」
先ほどよりかは、言われてみればの「意外性」が加わると少し笑える要素が出てきます。
「意外性と共感」とは、予想していなかったが、言われてみれば共感できるということだと思います。
あるあるネタの要素として
あるあるネタの要素として、聞く側としては、漠然とした世間一般の「あるある」という「共感」を言うんだろうと視野の広い状態で構えます。
これは敢えて、漠然とした視野の広い状態にしておきます。
なぜなら、カラオケのあるある言います!でネタが始まると、聞く側で「店員来たとき歌やめる」が予想内になる可能性があり、「意外性」が失われるてしまうかもしれません。
聞く側の視野を広くしておき、芸人さん側で”勝手に”カラオケに絞り、「店員来たとき歌やめる」と言われれば、「意外性と共感」は生まれやすくなります。
あるあるネタが始まった瞬間に、「カラオケのあるある言うんじゃない?」と予想する人は少ないと思いますので。
漠然と大きく視野を広げておいて、一点に絞ったあるあるを連発するスタイルは「意外性」を生み出しやすいネタであると言えます。
ですので、前項で話した、「歌いたいときカラオケ行く」でカラオケに視野を狭めてしまったので、もしかしたら次の「店員来たとき歌やめる」が弱くなってしまったかもしれません。。
霜降り明星の漫才スタイルは「意外性と共感」
「意外性と共感」の最もいい例は、霜降り明星の漫才だと思います。
せいやさんのボケに対して、粗品さんのツッコミが「意外性と共感」を実践していると思います。
例えば、お二人の漫才で、「ちゃんと目を見て話せ」「聞こえないよ」などと野次るせいやさんに対して、「野党」というツッコミは予想していない「意外性」のあるワードであり、かつ「共感」もできます。
これが単なる「うるさいな」「野次るな」などというツッコミでは、ツッコミとしては間違っていないので「共感」はできますが、「意外性」はなくそこまで面白くありませんよね。
「笑い」とは予想しない「意外性」と納得できる「共感」は必須の条件だと思われます。
「意外性と共感」は実践が難しい
とはいっても、日常で実践することはかなり難しいです。
なぜなら、「意外性」にはセンスが求められます。
実践できて「笑い」を取れているなら、その人はかなり面白い人です。
ただ、一点意識すると少し実践がやりやすくなると思っています。
それについては、今後お話しさせてください。