どうして今の金春湯になったのか
昭和時代の金春湯
大崎金春湯は昭和25年に創業したそうです。当時の金春湯の周辺は「百反通り」の名の通り、田園風景が広がっていたそうですが、ここに「金春座」の演芸場があったのです。もともと金春湯はこの周辺の地主の山森さんという方が、戦後まもなく銭湯を開業したのですが、わが角屋家も羽田で銭湯を営んでいました。しかし東京オリンピックにさきだつ道路の拡張でその銭湯をたたまざるを得なくなり、ほかの営業場所を探した結果、大崎の金春湯を買い取ることになったそうです。
初代の金春湯は宮づくりの木造建築で立派なものでした。中庭には池もあり鯉が泳いでいました。カランとシャワーも男湯・女湯に各40以上もあり、お湯を沸かしてお店を開けさえすれば、常に店は満杯状態だったようです。しかも近隣にはいくつも銭湯があり、どの銭湯も同じような状態だったようです。
しかし、戦後の復興とともに自家風呂が普及し、少しづつ利用者が減り始めていました。金春湯は?といえば、周りのまだ自家風呂のない住民や、立正大学の学生が通ってくださって、まだまだ元気でした。
世の中のバブル景気もしぼみ始めてきた昭和の終わり、角屋家金春湯2代目は、店を建て直す決断をします。そのころの銭湯のリニューアルは「多角化」する傾向があり、ビル型銭湯にし、1階が銭湯、2階は賃貸マンションや貸店舗、フィットネスジムなどにするところがありました。
コンパルビル
昭和62年、コンパルビルは完成します。そして平成時代に・・・。その少し前に今の社長(仮)が誕生しています。しかし角屋金春2代目は間もなく病に倒れ他界してしまうのでした。金春湯の新築という大仕事を成し遂げたのに、たった2年ほどしか見届けられなかったことは心残りだったかもしれません。
店の3代目経営者は2代目の妻(これを書いている私の義母、今の社長のおばあちゃん)になりました。私も10年勤務した職場を退職し、金春湯の仕事に専念することになりましたが、どうもこの業界の先行きにあまり明るいものは見えないような感じはありました。
このころの金春湯ののレイアウトですが、玄関は今と同じ。店に入ると今の畳の休憩室は一段高くなっており、ソファーが並べられていました。
脱衣場に入ると真ん中に島状のロッカーがあったので、少し窮屈だったかもしれません。
流し場と浴槽は今とは大きく変わっていました。まず4列・38個のカラン・シャワーが並んでおり、奥に浅湯・深湯・座風呂がありました。そしてペンキ画ならぬタイル画は、夕日の海に浮かぶ帆船でした。「夕日」は商売には縁起が悪いとかであまり用いられないものでそうですが、金春湯には夕日が描かれていたのでした。
サウナはまだありませんでした。というのはそのころ浴場組合では同じ料金で営業している中での大きなサービスの差を嫌っていました。つまり競争を極力なくし、横並びでやっていこうという組織の志向があったためでした。金春湯ではゆくゆくサウナを新設する予定で、今のサウナの場所は、ガラス張りの中庭となっていたのです。
サウナが出来た
銭湯の様々な設備は、だいたい15年ほどであちこち痛みが出てくるといわれています。金春湯も当時、重油を燃やしていましたが、設備の故障などが重なってきたタイミングで、燃料を都の推奨に従いガス化します。そのタイミングでサウナを新設することにしました。もう、品川組合の中でも、サウナは特別な設備でもなくなり始めていたのでした。
サウナ室はかなりこだわった(サウナについての詳しい話は次回)つもりでしたが、残念なことに、まだ水風呂はできませんでした。水風呂を作るということは、サウナ室を作ることより、かなり大工事になるためでした。
大改装
2007年、とうとう配管に穴が開き、湯舟や流し場を掘り返して直す必要がある状態になってしまいました。急いでも半年かかる大改装です。
そこで湯舟やカランの配置を変えるとともに、水風呂を新設することが出来ました。(なぜこのようなレイアウトになったのかは次回)
改装後にはたくさんのお客さんに来てもらい、金春湯もにぎわいを取り戻しました。日曜日などは入場をお待ちいただくほどの込み具合の時もあり、大改装は大成功と思っていた数年間の間に、近隣の銭湯も改築、大改装が続き、しかもリーマンショックからの不景気、追い打ちをかけるように東日本大震災。次第に金春湯の経営もピンチになってきました。
そのピンチを節約で切り抜けた3代目、そして幸運だったのは「サウナブーム」の到来なのでした。この機をうまくとらえたのは今の社長(仮)。これらの条件がそろわなかったら現在の金春湯はなかったかもしれません。