IVEの新曲『Supernova Love』がなぜムカつくのか
いやぁ…IVEの新曲、結構炎上してますね
別に俺は「坂本龍一さんが生きてたら許可してなかったはずだ!」とか「パクって軽々しいラブソングに仕立てやがって!」とまで怒りはしない。
ただそれを差し引いても、どうにもこの曲に対してポジティブなイメージが持てないのだ。
その気持ちをなんとか言語化してみた。
○デヴィットゲッタの真意
Kpopの作曲家は基本複数人で作業している。
欧米のポップスを意識する彼らにとって、個人のアーティスティックなエゴは必要とせず、より民主的なシステムを採ってるわけだ。
だが今回はデヴィットゲッタが総合プロデューサー的な立ち位置で招聘された。
知らない人にも説明しておくと、デヴィットゲッタはEDMという音楽をアメリカで流行らせた立役者の1人であり、ウルトラミュージックフェスティバルでトリを務めるDJだ。
DJ長者番付でも何回もランクインしており、「世界一のDJ」とまで呼ばれている。
そして、この記事を見ればわかる通り、別にデヴィットゲッタはkpopアイドルへ楽曲提供することに対して、少なくとも舐めた態度を取ってるわけではない。
むしろ発言を見てる限り、東洋と西洋を超えて文化的な団結を促す気概すら備わっている。
○ 「戦メリ」サンプリングに潜む構造的欠陥
だが、そもそも「戦場のメリークリスマス」をサンプリングしたダンスチューンを作るという発想に対し、疑問を抱かずにはいられない。
坂本龍一のこの楽曲は、繊細で内省的な美しさが際立っているからこそ、多くの人の心を掴んで離さないのであって、その楽曲構造はダンスチューンとしての適性が高いとはとても思えないのだ。
和音進行、メロディーライン、テンポの全てがじっくり聴かれることを前提にしているため、ダンスフロアでの使用には無理がある。
音楽理論を詳しく説明せずとも、「戦場のメリークリスマス」の持つメランコリックなメロディーとダンスミュージックのエネルギーは、基本的に相容れないものなのではないか。
もちろん、電子音楽の中には内省的な表現を得意とするサブジャンルも存在する。
たとえば、ポスト・ダブステップのようなジャンルなら、坂本龍一の楽曲を下敷きにしても、そこに内面的なリズムや質感を与えることで成立するかもしれない。
むしろそのようなアプローチであれば、アイドルポップに属するIVEの新たな方向性を示すこともできただろう。
今までの作品で見せてきた華やかでキャッチーな一面とは一線を画し、アイドルポップという枠組みを超えた挑戦を実現できたはずだし、デヴィットゲッタ自身も新たな一面を聴衆にアピールできた。
しかし実際にリリースされた「Supernova Love」は、そんな新境地を感じさせることはなかった。
どちらかといえば「戦場のメリークリスマス」という強烈なサンプリング素材を前面に押し出す一方で、トラックそのものには意欲的な音作りの気配が乏しいのだ。
電子音楽のシーンで活躍する人は、歌詞やメロディーでアピールできない分、誰よりも「音」に対してこだわりがあるはずだ。
今どうゆう「音」がDOPEに感じられ、どんな「音」にすればリスナーを引き込めるか、四六時中考えてるはずだ。
今回のようにサンプリング素材そのものが強力であるからには、優れた発想力をもって「戦メリ」に新たな解釈を付け加える必要があるのだ。
でなければ、原曲に負けてしまう。
それを重々承知してるはずなのに、世界トップクラスのDJであるデヴィッド・ゲッタがここまでの「暴挙」に出るとは、正直驚きを隠せない。
これじゃあ、「手抜き」と捉えられても仕方あるまい。
○ 果たして、「和モノ」サンプリングの一環なのか
さらに気になるのは、「和モノ」サンプリングの流行に対する解像度の低さだ。
近年、和楽器や日本的なメロディーを取り入れたエキゾチックなEDM作品はもはや定番となっている。
それだけでなく、シティポップの流行でますます日本の音楽が注目されているこの頃だ。
Weekendが亜蘭知子、タイラー・ザ・クリエイターも山下達郎…
現代屈指のスターであるハリースタイルズさえも細野晴臣をリスペクトする、そんな時代だ。
彼らには、日本的な要素をただの「装飾」として使うのではなく、深く理解した上で独自のサウンドに消化し、再解釈する力がある。
そうやって、各々のクリエイターが日本人でも盲点だった楽曲をサンプリングしているのに対し、坂本龍一の戦メリを選ぶのは流石にベタすぎないか。
正直なところ、ドラゴンボールが好きなラッパーとかの方がまだ好感が持てる。
つい、「Oh…ニッポンのミュージック? ワタシもシッテルネ!サカモト リュウイチ!」なんて、おざなりな日本理解すら見透かしてしまいたくなる。
実際、デヴィッド・ゲッタがどれだけ日本文化に関心を持っているのかは知る由もないが、このような作品からは、むしろ日本的要素を単なる記号として借りただけという印象を受けてしまうのだ。
IVE側の制作陣も、日本の音楽を適当に扱えば日本のファンが喜んでくれるとでも思ったのだろうか。
しかし、そう簡単にはいかない。
日本のファンは、ただ日本的なものが使われているからといって必ずしも歓迎するわけではない。
むしろ、表面的なアプローチに対しては冷ややかな反応を見せることも少なくないのだ。
ちなみに、こういった「日本への擦り寄り」が非常に好例だったパターンが、NewJeansのハニが披露した「青い珊瑚礁」のカバーだ。
シティポップの文脈ではあまり扱われないが、日本人なら誰でも知ってる松田聖子。
しかもその中で、最もハニのあどけなさに近い「青い珊瑚礁」をピックアップしたのは、やはりミンヒジン含む制作陣の、日本に対する解像度が高かったからこそ成し得た妙技なのだ。
あれを聞いて、「松田聖子を軽視するな!」なんて怒りを覚える人なんていなかったはずだ。
皆を納得させられる繊細さと大胆さを持ち合わせているかどうかが、クリエイターとして一流と二流が分かれるところである。
そういう意味で、現に批判が続出している以上、ゲッタが志向していた制作意図は、楽曲に反映されてなかったといえる。
○仮に坂本龍一をサンプリングしたいのなら
とはいえ、ゲッタがそういった文化の壁を越えようとしたのは認めてやりたい。
そしてその象徴として坂本龍一を使いたいのなら、もっと別の作品を扱うべきだ。
では、どの作品か?
やはり、NEO GEO期が相応しいだろう。
YMOが志向していた東洋コンプレックスをなくしサイバーパンク的世界観に落とし込むコンセプトを、さらに突き詰めた内容だ。
ロック、ファンク、フュージョン、民謡…ありとあらゆる音楽をごった煮にした混沌とした楽曲群は、教授のディスコグラフィーの中でもとりわけ異質な存在感を放っている。
まあクラブ畑のゲッタからすると、少し扱いにくいかもしれないが、非常にポテンシャルのある素材が眠っている。
少なくとも、「戦メリ」よりは盛り上げやすいのではないだろうか。
とまあ、ここまでネガティブな批判をしてきたが、俺は普通にIVEが好きだし、次回作に期待したい!