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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観てきました

こんにちは。
鴨井奨平です。
近所のシネコンで『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観てきました。
これ、けっこう面白い映画ですね。
以下にネタバレ有りの感想を記します。





まず前提として、この映画は、「アメリカ合衆国の分断が深化し、内戦に突入した世界」を舞台にしています。
このような映画が作られたということは、
南北戦争以来となる内戦が起こり得るとアメリカ人が少なからず不安を抱き、それがリアリティをもって世間で共有されているということだと思います。物語には将来到来する「ディストピア」を抑制する働きがあります。ディストピアを描いてきた多くの作品群には、「このような未来になって欲しくない!」という作り手の強い願いが込められています(よく例に出されるのは、オーウェルの『1984年』とかですかね)。『シビル・ウォー アメリカ最後の日』も、アメリカ(あるいは世界)の未来を憂いて作られた作品であると私は思います(だって、こんな映画を公開したら絶対に炎上するし)。
私はこの映画を観て、
アメリカの政治・社会情勢が如何に緊迫しているか、
そして、「国難の危機」を上質な物語に翻案するアメリカエンタメの膂力を感じ取りました。

物語に関して印象的だったのは、
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のジャーナリスト(ディストピア戦争モノにしては珍しく、主人公はジャーナリスト)が物語において、「報道」よりも「記録」に関して大きな役割を担わされていたことです。彼らは、祖国がどのような状況にあるのかを命をかけて記録し続けていた。多くの事実を集積することができれば、後世になってその時代を検証することができる(逆に、事実の集積が無ければ検証は困難)。記録し、伝える者として主人公たちは映画の中で生きていました。
私はジョエル(ワグネル・モウラ)が、「幼稚園児」「老人」とも形容されたジェシー(ケイリー・スピーニー)とサミー(スティーヴン・ヘンダーソン)の同行を許したのは、「『記録者』としての自分たちを『記録』させるため」だったのではないかと思っています。命がけの仕事をする自分たちを記録する者がいなければ、自分たちが死んだ時、その仕事は無に帰してしまう。ジョエルは(おそらく無意識的に)それを恐れたのではないかと考えています。
そしてこの映画は、ジェシーが「戦争の狂気」に慣らされ、そして高揚していく中で、「ジャーナリスト」へと変質していく物語でした。そしてそれに反して、リー(キルステン・ダンスト)は「戦争の狂気」によって「記録者」としての役割を放棄してしまった。この両者のコントラストが印象的でした。
それを象徴しているのは、ラストのホワイトハウスで、リーがジェシーを身を呈して守ったシーンだと思います。物語冒頭で描かれたプロの「記録者」たるリーならば、ジェシーをかばうなどしなかったはずです。むしろ彼女は銃弾をあびるジェシーをフィルムにおさめたはず。しかしそれをしなかった。逆にジェシーは、冷徹とも見える表情で(自分の身代わりとなって)撃たれたリーを撮影した。
これは一見すると、「ジェシーのせいでリーが死んだ」シーンに見えるかもしれませんが、私は「『記録者』としての役目がバトンタッチされた」シーンであったと考えています。


それにしても、日本人は国民・民族的暗部や恥部、トラウマをエンタメに昇華するのが苦手なんじゃないかと、『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観て思いました(その「日本人」にはもちろん私も含まれます)。こういう映画ってあまり無いですよね、国内には。
ちなみに以前(多分、3〜4年前)、私はとある映画会社の企画コンペに、「戊辰戦争以来の内戦状態に陥った日本」を舞台にした映画の企画書を提出したことがあります。結果は箸にも棒にもかからなかったですけど。

今回はこのへんで筆を擱きます。

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