短編小説『葉子と叔父の密会』
何度か、スマホのアラーム機能に眠りを邪魔された。
ようやく観念して起きた時には、いつもより十分ばかり寝坊している。
「いけない」
葉子は慌てた。
家族が、朝食の膳で彼女を待っているはずだ。
二階の自室から階段を降りて居間に行った。
家族はすでにこたつを囲んで座っている。
こたつの上には家族皆の食事が誂えてあるが、誰も手をつけていない。
テレビをつけるでもなく、家族それぞれが静かに座ってただじっと待っている。
何事だろう、と葉子は思った。
葉子は、すでにこたつに座っている弟と姉との間、自分の定位置に滑り込んだ。
しかし、家族は彼女が来ても座っても、変わらずじっとしている。
自分のことを待っていたのではなかったのか、と葉子は思った。
「ね、何これ」
左隣に座っている弟の光男の腕を肘で軽く突いた。
弟は反応しなかった。
薄目を開けて軽くうつむき、じっとしたままだった。
葉子は気味悪く思った。
光男とは仲が良く、彼女が何か問えば二倍にも三倍にも増して言葉を返してくる弟なのだ。
小突いて反応が無いなんて初めてだった。
思わず右手に座る姉の豆子の方を振り返った。
姉も、弟と同じようにうつむいてじっとしている。
「お姉ちゃん」
葉子はおそるおそる、姉の腕を持って揺さぶってみた。
反応がない。
豆子は、妹のするがままに任せている。
なんだこれは、と葉子は思った。
こたつの向かいに座る父、母、祖母も、姉や弟と同様に薄目でうつむいている。
「お父さん、お母さん、おばあちゃん」
呼びかけには誰も応じなかった。
葉子は口をつぐんだ。
卓上の味噌汁の椀から湯気が立ち昇っている。
葉子は、叔父のことを思い出した。
叔父は、母の弟にあたる人らしい。
こうなったら叔父を頼ろう、と葉子は思った。
葉子が物心ついた頃にはすでに、叔父は家にいた。
彼はいつでも彼の居室にいる。
一度ついた食事の席から再び立ち上がるのはお行儀が悪いとは思ったものの、非常事態では仕方がない。
少しうしろめたい思いをしながら去りつつ、葉子はこたつの方を振り返った。
家族は同じ姿勢のまま、じっとしている。
葉子が短時間、そこにいたことに彼らが気付いたのかどうかも怪しい。
居間から通路に出て、家の奥に進むと、左手に木製の扉がある。
叔父の幹男の居室だった。
「叔父さん」
葉子は扉を軽くノックした。
中から応じる声がするので、扉のノブをひねって中へ。
扉は重く、開きづらかった。
中に身を入れた。
微かに、お香の香りが煙っている。
六畳一間に和机と本棚、空いたスペースの片隅に万年床が敷いてある。
和机の前に胡坐をかいて、叔父の幹男は書籍に目を通していた。
彼はいつもパジャマ姿でいる。
左手に持った本の中を覗き込むように。
心持ち猫背を丸めるようにしながら。
空いた右手の指先で、顎に剃り残した髭を弄びながら読書するのが叔父の癖だった。
母の弟ということだが、顔立ちは母よりも随分と若い。
葉子とあまり歳が変わらないぐらいの、若者だとすら思える。
しかし物腰自体は年寄りくさい。
実年齢は不明だ。
「叔父さん、家族が」
息せき切って、葉子は切り出した。
「次のページの終わりまで読ませておくれ」
幹男は右手の掌で葉子に断りを入れた。
「それどころじゃないのよ」
葉子は叫んだ。
姪の抗議に、叔父は耳を貸さなかった。
きっちり次のページ終わりまで読み切ってから、ようやく本の間に手製の栞を挟み、和机の上に置いた。
横目にちらり、と葉子の方を見た。
「家族がどうしたのかね」
「微動だにしないんだよ」
待たされた葉子は焦れている。
「まあ座りなさい」
興奮している彼女を、幹男は自分の隣に座らせた。
家族が朝食の膳を前にして微動だにせず、葉子からの働きかけにも全く反応しない。
その状況の説明を葉子から受けて、幹男は、ははあとうなずいた。
「何が、ははあ、なの?」
わかった風な顔をしている叔父に、葉子は不審な目を向けた。
「叔父さん」
「僕も、さっきからおかしいと思っていたのだ」
幹男は立ち上がった。
座っている葉子の前を通り、部屋の外に出て行こうとする。
「いきなりどこ行くのよ」
「ついておいで」
さっき座ったばかりなのに、と思いながら葉子は立ち上がり、叔父に続いた。
「おかしいと思っていたのは、これだ」
二人で、幹男の部屋からさらに通路の奥にある、台所に入ってきている。
幹男が顎をしゃくって見せた先は、台所の壁にかかった壁掛け時計だ。
昔から家にある、古風な舶来物の、木製の造型だった。
一時間ごとの時報に合わせて、鐘の音が鳴る仕掛けになっている。
「ほら、針が止まっているだろう。しばらく前から、なんだか静かだな、とは思っていた。秒針の音が聞こえなかったんだ」
確かに、時針も秒針も動きを止めていた。
「電池切れみたいだけど。これが何」
葉子は幹男を見て眉をひそめた。
「電池ではないのだがね。これはゼンマイ式の時計さ」
「そのゼンマイ式がどうしたっていうのよ」
「巻き直す前にゼンマイが完全に戻りきってしまったので、時計が止まった。それで皆も動かなくなった」
幹男は説明した。
「どういう理屈?」
「いいかね。君は気付いていないかもしれないが、この家の中にある時計は、この壁時計だけなのだ」
「ほんと?」
幹男に言われるまで、葉子は気付かなかった。
「置時計とかあるんじゃないの。あとスマホとか、腕時計とか」
「この家で置時計など見たことがあるのかね」
葉子は首をひねった。
「そう言えば」
置時計を家の中で見たことがない。
「それとだ。君以外の家族が、腕時計とかスマホとか、持っているのも、見たことがあるかね」
「それも、記憶にないな」
葉子自身はスマホを持っている。
しかし祖母はまだしも、壮年の父母に加えて若者である姉と弟すら、スマホを使っているところを葉子に見せたことがない。
彼らがスマホを購入したという話も聞いたことがなかった。
腕時計にしてもそうだった。
「え、いくらなんでもそれは不便じゃないの?」
この家でスマホを持っているのは自分だけだという事実に初めて気づいて、葉子は背筋が凍る思いがした。
「何この家」
「スマホだけではない。パソコンもないからな。それどころかこの家、テレビもラジオもない。目覚まし時計もない」
「あ、本当だ」
そう言われてみれば、いつも暇さえあれば自分のスマホを見る癖のある葉子は、気にしたこともなかった。
家族が時間を確認する手段が、この家には台所の壁時計をのぞいて、全く存在しないのだ。
テレビだのラジオだの、葉子は友人の家に出入りして存在を知っていたが、自宅には影も形も無いものだった。
改めて考えると、おかしい。
「時計もテレビもラジオも無いなんて。そんな家、うちだけじゃない?」
幹男に救いを求めて視線を送った。
「いや、僕は他所の家庭を知らんから何とも言えないが。まあ、どこの家もたいして変わらないのではなかろうか」
「そんな訳ないじゃん。仮にスマホが無いとして、テレビかラジオかパソコンか、どれかは絶対あるでしょう。あと、腕時計とか目覚まし時計とか。どこの家にでも」
詰め寄っても、幹男は曖昧に笑うばかりだ。
駄目だ、と葉子は思った。
この叔父はこの家の中にずっといるのだから、他所のことを聞いても無駄だった。
「ま、他所のことはともかくだ。うちは、もしかしたらちょっと特殊なのかもしれないね。誰も個別に時間を確認する手段を持っていない」
「特殊過ぎるよ。ということは、うちの姉や弟はスマホのアラームも目覚まし時計も無しに、いつも時間通りにきっちり起きていたのか……」
「そうだぞ。マイペースなのは君だけだ」
「気持ち悪い。何なのこの家、本当に。うちの家族も」
「君だけが、例外的にスマホを所持して、自分の時間を持っている訳だ」
「それ、家族の中で私だけが動いているのと関係あるってこと?」
「そうだ。君をのぞいた家族皆が、台所に唯一あるこの時計によってそれぞれ時間を支配されている。それ故に、壁時計が止まると時間も止まってしまう」
幹男は得意そうに説明した。
「そんなの不便じゃないの。この時計が止まってしまったら、誰も戻せないんだから」
葉子は疑問をぶつけた。
「確かにな。だが君か、君以外に誰か腕時計かスマホを持った人が訪ねてくれば、壁時計のゼンマイを巻くことはできる」
「私、壁時計の意味なんか知らなかったし、訪ねてくる人だって台所にある時計のことなんか気付く訳ないじゃん」
「そういう時は僕が説明して、巻いてもらえば済むのさ」
「叔父さん、いつも部屋に閉じこもってるくせに」
「非常事態になったらさすがに出るのだ。実は、十何年に一度の割合で、ゼンマイの巻き直し忘れが起こっている。その度に、僕はやむを得ず部屋から出て、来訪者を待つのだ」
幹男の説明を聞いて、ぞっとした。
葉子にとっては今回が初めてだが、前回がどういう状態だったのか気になる。
誰かゼンマイを巻いてくれる人が来るまで、家族の時間は止まったままということになるではないか。
「誰も来なければどうなるのよ……」
「誰か来るまで何年でも待つことになるな。ただ意外と、この家には人が頻繁に訪ねてくるんだ。だから心配いらない。それに、仮に何年も時間が止まったままでも、その間には家族の皆は歳を取ることもなければ腹も減らない。彼らにとっての時間は止まっているので。死にはしない。僕が人見知りを押して来訪者に頼み事をする、それだけの苦労で済むのさ」
しかし、時々そういうことが起こっていたとすると、うちの家族と世の中との間には、少しずつ時間の齟齬が生まれているはずだ。
それに家族は気づいているのかいないのか。
葉子は薄気味悪く思った。
同時に、横にいる幹男が、実は自分以外の人と関わり合う機会を持っていたことを意外に思った。
「叔父さん、私以外の人と接すること、あったんだね」
「まあ、ね」
葉子の言葉の含みに気付いてか、幹男は言葉を詰まらせながら答えた。
「それでも、君という姪は特別なのだよ」
「何よ、それ」
幹男は、咳払い。
さあ、と葉子に促した。
「今回は、君のお役目だ。僕は、自室の外では無力なのだ。ゼンマイ巻きをよろしく頼む」
「仕方ないな」
葉子は壁時計を壁から外し、テーブルの上に降ろした。
幹男の指示に従って、手巻きでゆっくりとゼンマイを巻いた。
指先でツマミをつまんで回していく。
時計内部のゼンマイを巻く度に、ぎり、ぎり、ぎり、と。
何か指先に重みを伝えるような音が響いた。
いくらかゼンマイを巻いたところで、家の中の空気の流れが変わったような気がした。
居間の方で、家族の皆が動く気配。
祖母と母が話す声がした。
「皆、戻ったようだぞ」
「叔父さん、色々教えてくれてありがとう」
手の中で、壁時計の秒針が動く度に、聞き慣れた音が鳴る。
振動が伝わってくる。
壁時計を、壁に戻した。
「早くご飯を食べてきなさい。最近寒くなったから、味噌汁もすぐ冷めてしまう」
「わかってるよ。じゃあ、また」
台所で幹男と別れて、通路を小走りに居間へ。
ちょうど居間の中は、母がこたつの食卓から立ち上がったところだった。
寝坊していた葉子を起こしに来ようとしていたのだろう。
「あら、おはよう」
母は葉子を見て声をかけた。
葉子も母に、ついで家族の皆に挨拶する。
家族はそれぞれが動いて食事を再開している。
口々に葉子に挨拶を返した。
姉の豆子と弟の光男の間に座り込む葉子の方を、父が見やった。
「葉子、お前、二階で寝てると思ったのに、台所の方から?」
「うん」
「時計のゼンマイ、巻いてくれたのか」
「そう。さっき叔父さんに教わって巻いた」
叔父と聞いて、食事をしていた母と祖母の箸が止まった。
「そうか、ありがとうな。しまったな、最近時計のゼンマイ巻き直すの忘れてた」
取ってつけたように父は言って、性急に食事に戻った。
自分も食事を始めながら、葉子はそれとなく、母と祖母の方をうかがった。
食事を続けながら、母も祖母も、涙をこらえているように見えた。
葉子の隣の豆子と光男は、気付かないふりをしている。
葉子もそれに習った。
私が叔父さんと会えるようになったのは、学校に通うのを止めた後。
その後、私だけ、スマホを買い与えられてからだ。
と、葉子は思った。
たぶん、あの壁時計に時間を支配された人は、叔父さんがいる世界とは違う時間軸の世界に、居場所がずれるのだろうな。
葉子は、そう推測し始めていた。
この家ではスマホを持つ葉子以外の、家族皆がスマホはおろか腕時計も持たず、家の中にもパソコンもテレビも置き時計も置かずにいる。
そのような不便をした甘受した上で、時間の支配を壁時計ひとつに委ねている。
それはおそらく、この家に残る幹男の存在が原因なのだ。
壁時計の時間支配を受けることで、幹男のいる世界とは違う時間軸に移動することができる。
それによって、家族は幹男と会わずに済む。
スマホを持つ葉子だけは、この家の中で、叔父と住む世界を共有している。
こたつの向こうで幹男の存在に想いを馳せているらしい母と祖母のことを考えて、葉子の胸も痛んだ。
幹男は母にとっては弟、祖母にとっては息子なのだ。
本来なら、彼に会いたくないはずがない。
それが家族丸ごと幹男という存在を避ける方針を取っているのは、彼らの間に複雑な過去があったからに違いない。
それは葉子や、姉の豆子が生まれる前までに遡るのだろう。
姉と弟を差し置いて、自分だけにスマホが買い与えられたのは、あくまで例外的なことだった。
母か祖母の差し金か、自分だけが叔父と分かり合えると。
『君という姪は特別なのだ』と叔父が言っていたのも、それを裏付ける気がしたのだった。
食事を終え、父と姉は通勤のために、弟は通学のために慌ただしく出かけていった。
母と祖母と葉子は、食事の後片付け。
片付け終わり、他の家事に移る母と祖母を置いて、葉子は叔父の部屋に向かった。
ノックのやり取りの後に中をのぞくと、叔父は変わらず読書している。
中をのぞき、叔父の前のめりな背中を眺めながら、葉子は一瞬言葉にするのをためらった。
「あのね、私。学校に行ってみる」
勢いをつけて言った。
叔父の背中がわずかに動いた気がする。
「いいね」
本をのぞいたまま、叔父は短く言った。
「久しぶりに、顔を出してみようって思う」
「そうか。よし」
叔父は本を和机の上に置いた。
栞を挟まないまま、ページが閉まった。
「葉子さん」
「うん?」
「叔父は、何があっても君の側につく」
上半身をこちらに向けた叔父の双眸が、真っすぐ葉子を見つめていた。
終
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