短編小説『東京旅行の二人と怪人』
野乃と亜美、二人ともテンションが上がって騒ぎながら歩いて来たので、その時も違和感は無かった。
「あはっ、野乃あれ見て、変な人」
亜美が道路の向こうを指さしながら、甲高い笑い声を上げた。
二人共に進路が決まった高校三年の夏休み、前倒しの卒業旅行で初めて来た東京渋谷の街。
駅前のハチ公像を見てひとしきりコメントした後、渋谷スクランブル交差点で大勢の人と共に信号待ちをしている最中だった。
「え、どの人よ」
亜美が指さす先は、道路の向こう、センター街入り口付近に集まる人々の群れ。
渋谷は若者の街というだけあって、道を行く人たちのファッションも先鋭的に見える。
亜美がそういうことを言っているならわかる。
でも野乃は、遠くで交差点を待つ人たちを遠目で見ながら、変と言えるような人を見つけることはできなかった。
「変な人って、おる……?」
「見えへんの?ずっとくねくね踊ってる人やで?」
亜美は興奮して声を高め、より一層、指先を前方に突き出した。
しかし野乃がいくら目をこらしても、彼女の指先に、そんな人物はいない。
騒いでいる亜美を見て、周りの人たちも胡散臭い目で二人を見ている。
野乃は恥ずかしくなった。
亜美は、何をふざけているのだろうか。
面白くもない。
「えー、なんでわからんのよ?」
亜美が野乃を睨む間に、信号が青に変わった。
スクランブル交差点に、四方から一斉に人がなだれ込み始める。
周囲の人の流れに押されるように、野乃と亜美もセンター街の方に向かった。
「ほらほら、こっち来た、私の右側。まだくねくねしてる」
歩きながら、亜美が袖を引く。
「このまま行ったら、すれ違うわ。あ、だんだん顔見えてきた」
はいはい、と野乃はおざなりに相手した。
彼女は彼女で考えることがある。
センター街を通って、どこかで北に抜けて井の頭通りに合流したい……。
そしたら、通り沿いにスペイン坂の入り口があるから……。
スペイン坂を通り抜けて、その先のパルコに入ろう……。
観光の道順を脳裏で反芻しているときだった。
さっきから彼女の右袖を両手に取って歩いていた亜美が、急にこちらの手首を強く握りしめた。
とんでもない力だった。
「痛い。なんなん?」
顔をしかめて亜美の横顔を見た。
野乃は、口をつぐんだ。
亜美はうつむいている。
うつむいたまま、呼吸を乱している。
横顔に、うっすら汗がにじんでいた。
体を小さく震わせていた。
亜美は、しばらくは口を利かなかった。
ただならぬ雰囲気を漂わせている。
しばらく無言の中で二人は歩いた。
野乃から、どう声をかけていいかわからない。
観光客で賑わうセンター街の明るい通りを歩くうち、亜美はまた軽口をたたき始めた。
彼女の調子に合わせて、野乃も、気軽な応酬を再開した。
スペイン坂、渋谷パルコとウィンドウショッピングした後、井の頭通りから文化村通りを経由して、渋谷109へ。
つつましい予算の許す限りで買い物をして、渋谷駅に戻る。
そろそろお昼、ちょうどお腹が空いた頃合いだ。
山手線で、池袋方面行き各駅停車の電車に乗る。
原宿は今回は素通りして、新大久保まで来て降りた。
コリアンタウンに入る。
野乃たちと同世代の女の子たち、カップルたちで歩道が埋め尽くされるぐらいに混雑している。
また人の流れに従ってゆっくりと通りを歩いて行く。
お昼は、目星をつけて予約をしていたチーズタッカルビのお店に、時間通りに到着できた。
昼食を取り、午後からまたウィンドウショッピング。
途中休憩、これも目星をつけていた韓流カフェの店に立ち寄った。
亜美は完全に調子を取り戻している。
ボーイの男性に、カッコいいですね、オッパって呼んでいいですか、などと絡んで相手を困らせる。
そんな彼女に同調して、野乃も楽しんだ。
亜美が再びおかしくなったのは、夜、宿に落ち着いた後だった。
高田馬場駅前にあるビジネスホテルの、高層にあるツインの部屋だ。
自分のベッドの上に座ってはしゃいでいた亜美が、何気なく窓際に歩み寄った。
カーテンをめくって夜景を眺めながら歓声を上げていたのが、視線を落とすなり、急に黙り込んだ。
ベッドの上で荷物の整理をしていた野乃は、異変に気付いて亜美の方に顔を上げた。
嫌な予感がした。
「亜美?」
「また、いてる」
「何が」
「昼間の」
亜美は言葉少なだった。
野乃は、渋谷スクランブル交差点でのことを思い出している。
あの後、亜美は何も語らなかったので詳細は知らない。
だが亜美は何かを見たのだ。
「昼間って、確か変なこと言ってたけど。その話?」
震えている亜美を見ながら、野乃は尋ねた。
亜美は頭を落としてうなずいた。
見ていて目がチカチカするような、青白二色の縞が入ったジャケットに、同じ模様のズボン。
頭には、つばの広い、大きな青い帽子。
そんな服装の、細長い体格の男性。
亜美には遠目に、そう見えたという。
彼は信号待ちの間、ずっと全身をくねらせて踊っていた。
信号が青になって、横断歩道の中ほどですれ違う際に、ようやく相手の顔がはっきりと見えた。
亜美を見据えるその相手の顔色は、血の気が失せて緑がかっていた。
眼窩はくぼみ、黒い瞳孔が目の縁いっぱいまで膨張している。
大きく開いた口元に歯は一本も無く、歯茎だけが歯の無い無数の空洞を晒している。
口の中は、闇が広がっていた。
「まだ下にいてる。こっちを見上げてる。踊ってる」
カーテンを乱暴に閉めながら、亜美は叫び声をあげた。
語尾が嗚咽に繋がった。
野乃も窓際に近寄った。
亜美の制止を振り切り、カーテンを小さく開けて外をのぞいた。
二人がいるホテルよりも低い建物が連なった先に、路地が見える。
その路地は、行き交う人はいるものの、亜美が言ったような風体の人は見えない。
「やっぱり、私にはそんな人見えへんけどなあ」
そう言いながら、亜美に対して何の慰めにもならないことは、野乃にもわかった。
亜美は窓から離れて、部屋の隅にしゃがみ込んで震えている。
彼女には見えるのだ。
「警察に通報する?」
「警察は嫌」
亜美はかぶりを振った。
「じゃあ、どうするん」
野乃も困り果てた。
「私、この部屋からもう出えへんから」
亜美は低い声で言った。
「でも明日どうするんよ。原宿は?スカイツリーは?」
「野乃、一人で見てきて。私はチェックイン限度ぎりぎりまで粘る」
何しに二人で卒業旅行に来たのかわからない。
野乃は抗議した。
「でも、あんなんがついてくるのに、呑気に観光なんかできるわけないやんか」
亜美は感情的になって言い返すのだった。
亜美は部屋のユニットバスでの入浴も一人で使うのを怖がり、野乃にバスルームのすぐ外で待機してくれと懇願する。
お湯を使いながらこまめに話しかけてきて、野乃に返事を要求する。
部屋の中からのくぐもった声で、水音も混じって何を言っているのかわからず、曖昧な返事を繰り返すしかなかった。
野乃の入浴中には逆に、バスルームの外から常に話しかけてきた。
シャワーの水音で時に亜美の言葉が聞き取れなくて反応できないでいると、外で泣き出す。
野乃も閉口した。
「建物の中までは入ってけえへんのちゃう?」
部屋備え付けの部屋着に着替え、髪を拭きながら野乃は相手を諭した。
亜美の態度に呆れている。
「そんなん何も保証ないやん。油断したら部屋の中まで入ってくるかも」
「私らが油断しようがしまいが、入ってくるんならもう入ってきてるはずやと思うけど」
そう答えると、また亜美は怖がって泣き出す。
どうにも扱いかねた。
就寝の頃になっても、隣のベッドから何かと話しかけてきて野乃は眠れない。
「いい加減にしいよ、もう」
「だって、あんたが寝たらあいつが部屋まで来る」
「だからさ、どうせ亜美にしか見えてへんのやから、私が起きてようが起きてまいが、そいつは気にせんと入ってきてたはずやと思うよ。それが今まで大丈夫なんやから、私が寝ても大丈夫よ」
「自分に都合のいい解釈ばっかり、野乃は、ほんまは私のことなんてどうでもええんやろ」
「そんなことは言うてへんやろ」
野乃はうんざりしていた。
そして眠い。
「私に話しかけるぐらいやったら、お経でも唱えながら寝た方がいいんちゃう?そしたら変なのも近づかんやろ」
「でも、私が寝たらどうなるん?平気なの、お経唱えてる間だけと違う?」
「大丈夫よ」
眠気に襲われて、野乃は適当に答えるのがやっとだった。
寝返りを打った。
亜美がまだ泣き声をあげているようだったが、睡魔には抗えない。
お経を唱えなさい、お経を、と野乃は夢うつつに友人に語りかけた。
見慣れない天井を見て、旅行中だと思い出した。
横になったまま伸びをして、両手をついて起き上がろうとすると、手が柔らかい塊に当たった。
驚いて横を見ると、自分の隣に、亜美が潜り込んで寝息をたてていた。
「この子はほんまに」
呆れたが、眠っている亜美の頬に涙の跡があるのを見つけて、可哀そうになってきた。
亜美を励まして、身支度をさせる。
同じ部屋にもう一泊、連泊する予定なので、荷物はそのままだ。
一階のレストランで朝食を食べて、そのまま外へ出かけるつもりだった。
部屋の外に出ると、ぴったり寄り添って来る亜美を持て余しながら、エレベーターで一階へ。
レストランの入り口で従業員に食事券を渡し、ビュッフェスタイルの料理をトレーに集めた。
テーブルに座ってみると、ビュッフェに並ぶ料理は多彩だったのに、亜美がトレーに取ったのはロールパンひとつにバター、野菜サラダ少量と、グラスに注いだミルクだけ。
「亜美ちゃん、今日もあちこち行くのに、それだけやとお腹すくで」
野乃はたしなめたが、亜美は沈んだ顔で、かぶりを振るだけだった。
茶碗にしっかり盛り付けた炊き立てのご飯、生卵、納豆、ハムエッグ、ソーセージ二本、野菜サラダ、味噌汁にお茶、オレンジジュース。
野乃のトレーの方は賑やかだった。
「朝からお参りしたらいいと思わん?」
食事しながら、野乃は切り出した。
「立派な神社とかで神様にお祈りしたら、変なのもついてけえへんようになるんちゃうかな」
「そうかな、わからん」
亜美は頼りない声を返した。
ロールパンを手に取ったり皿に戻したりしながら、一向に口にしようとしない。
これは絶対後から空腹でバテるな、と野乃は思った。
ビジネスホテルから、高田馬場駅に向かう。
駅の北方にあるビジネスホテルから、歩いて南下していく。
神田川を南に渡る橋に差し掛かると、亜美が金切り声をあげて騒ぎ始めた。
橋から見える鉄道線路の高架下の橋梁の陰の暗がりに、例の怪人が潜んでこちらを見ているという。
やはり野乃にはそれが見えない。
亜美があまりに騒ぐので、居合わせた通行人まで動揺してどよめき始めている。
駅まで短い距離だがビジネスホテルからタクシーに乗るべきだった、と野乃は後悔した。
得体の知れない相手から逃れ、二人は小走りになった。
遠回りして高田馬場駅前のロータリーへ。
ビッグボックスが見えた。
大きな箱型の商業ビルである。
駅のすぐ横にそびえたつ巨大な長方形の箱型が威容を誇っている。
ビッグボックス入り口の脇には、交番がある。
そこまで走ってきた二人は、とりあえずその場でしばらく息を整えた。
「どうする、交番の前やし、中にお廻りさんいてるから、相談するなら今やで」
「いや、無理」
亜美は即座に却下した。
確かに、彼女にしか見えない怪人の話をした時点で、いたずら扱いされるか、病人扱いされるか、だろう。
高田馬場駅から電車で原宿駅に向かう。
二人は通路に立って満員電車に揺られている。
亜美の方はつり革を持ち、空いた手で隣にいる野乃の手を握っている。
亜美がこんなことになって、これからどうしたらいいんだろう、と野乃は思った。
原宿駅に着いた。
先に大きな神社にお参りする話をしていたので、駅西口から明治神宮の鳥居前に出た。
「どう?怪人はいてる?」
「いてなさそう、今のところは……」
自信なさそうに亜美は答えた。
それなら今のうちに境内に入り、お参りをしてしまおう。
野乃は亜美を伴って鳥居をくぐった。
深い森の中、参道の砂利に足先を取られながら二人は歩いた。
野乃には、空気が澄んでいるように感じられた。
緑の合間から鳥のさえずりを聞く。
野乃は亜美の顔をうかがった。
彼女も落ち着いた様子だ。
例の怪人も、聖域までは踏み込めないらしい。
他の参拝客たちの流れに乗って、正面に拝殿を迎えた。
亜美が怪人から解放されるように、旅を無事に終えて家に帰り着けるように、これからもずっと一緒に平和に過ごせるように、野乃は祈った。
隣で亜美も、目をつむって念じている。
元来た参道を歩いて、原宿駅前まで戻った。
怪人の姿が見えなくなった、と亜美が喜んでいる。
お参りの効果だろう。
野乃もようやく安心した。
観光予定の、竹下通りまで向かう。
観光客で混雑した細い路地を歩きながら、沿道のお店を物色した。
亜美がおなかが空いたと訴える。
朝食をろくに食べていないから、当然だ。
野乃は食欲は無かったが、亜美に誘われて一緒にクレープ店の店先に来た。
交差点の曲がり角に二店舗、クレープ店が道を挟んで並んでいる。
どちらの店も店頭に各種クレープのレプリカが並んだ大きなショーケースを並べた、可愛らしい外観の店舗だった。
どちらも、道に面した窓口から商品を受け取る、テイクアウト専門店らしい。
しかし、片方の店の店先に行列が出来ているのに、もう一方の店には客が一人もいなかった。
「どっちのお店にしようかな」
「混んでる店の方がクレープ美味しいんとちゃう?」
「やっぱそうかなあ。並ぶの嫌いやけど、仕方ないよな。悪いけどちょっと待っててくれる」
そう言いながら、亜美は一方の店の行列の最後尾についた。
野乃は手持無沙汰になった。
曲がり角の先の路地を行くと、東郷神社があるらしい。
念のために、私一人でこちらにもお参りしようか、と野乃は歩き始めた。
それにしても、一方の店にはお客が一人もおらんなんて、変やわ。
店と店の間の路地を通りながら、何気なく、客のいない方の店の店内を窓口のガラス越しにのぞいた。
すぐ内側に店員が立っている。
店の制服を着て、こちらに背を向けていたその細長い体格の人物が、外を通る野乃の方を振り返った。
緑がかった、血の気の無い顔。
異様に大きな、膨張した瞳孔。
じわじわと開いた口の中には歯が一本も無く、歯の抜けた歯茎がぎっしりと並んでいる。
その奥には口腔が見えず、闇が広がっていた。
そいつは野乃を凝視しながら上体を激しく、ぐねぐね、とくねらせた。
相手の視線から逃れて東郷神社への石段を駆け上りながら、野乃は気が遠くなりそうだった。
亜美が恐れていた怪人が、自分にも見えてしまった。
高台からさらに石段を登り、神社の拝殿前へ。
息切れしながら、野乃はスマートフォンを取り出した。
「野乃、どうしたん」
驚いた亜美の声。
「私、まだお店の前で並んでんで?」
「そのもうひとつの方の店の中に、いてる。亜美が言ってた、怪人」
「嘘?」
「お参りだけではあかんかったみたい。でも、私にも見えるようになった」
「嘘。どうしよう」
「いったんここから逃げなあかんわ。クレープのことはあきらめて、すぐ逃げて。竹下通りの向こう側、出口のところで落ち合おう?私も遠回りしてそこに行くから」
「わかった」
スマートフォンを切りかけたところで、亜美が、
「でも私、野乃も見えるようになってくれて、ちょっと嬉しい」
そう言った。
うん、私も。
スマートフォンを切った後、心の中で野乃は答えた。
得体の知れない怪人が近くに迫っている状況で、野乃は、自分の口元に笑みが溢れるのを抑えられなかった。
終
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