短編小説『春巻き』

昨今よく言うが、街中華、というジャンルの飲食店がある。
日本人店主が経営する、日本人向けにアレンジされた中華料理を出す。
地場の商店街なんかにあって、昭和の時代から営業しているような懐かしい感じのする中華料理店。
中華料理を出す食堂、という感じ。

「春巻きには思い入れがありましてね。学校給食で食べたのがそれは美味かったもんで、当時これが中華料理だなんて知らず、なんて旨いものが世の中にはあるんだと。今でもこういう店で見つけると、頼んでしまうんです」

私が街中華の店に入ることは、滅多になかった。
今回は所用で都会を訪れていた。
ビジネス街にあるその店に入ったのも、そこらにあるだろうとあてにしていた安価なファーストフード店が見つからなかったからだ。
そこはビルの一階にあるテナントの店で、白い生地に藍色で屋号が染められた暖簾をくぐって中に入ると、客でほぼ満席だった。
こういう人気店では常のことなのか、テーブル席に相席で座るよう従業員にうながされて、引っ込み思案な私は渋々従った。
そのテーブル席の向かいには、すでに先客の、スーツ姿の初老の男性が座っている。
赤い箸を操って食べ物を口に運んでいる。
何が悲しくて、赤の他人と顔を突き合わせて食事をしなければならないのか。
そう思いながら、ともかくも目が合った相手に会釈しながら座ったとたん、この先客が春巻きについて語り始めたのだった。

「は……」

相手の真意を測りかねて生返事をしながら、見ると確かに相手の手元にある平皿の上には、春巻きの残りとレタスとが載っている。
それとなく顔をうかがうと、先方は、ほくほく顔で春巻きを咀嚼している。
咀嚼しながら、こちらの顔を見ている。

私は目を逸らした。
春巻きを食べることができて、彼は幸せなのだろう。
それにしても、普通の人が、たまたま相席に来た他人にわざわざその心情を語ったりするものだろうか?
目を逸らしていても、先客の視線を顔に感じる。
咀嚼しながらこちらを見ているのだ。
私が春巻きについて何か喋るのを、期待しているのかもしれない。
相席なんか、こういう事故があるから嫌だ。
全くの赤の他人が、こちらの発言を待つ間。
その嫌な間を長引かせるよりは、私は反応を返すことを選んだ。

「そうですか。春巻き美味しいですよね」

下手なことを言うより、追従しておいた方が無難だと反射的に思ったのだった。
先方はうなずいている。

「あなたもきっとお好きでしょう。この店の春巻きは美味しいですからね」

男性はそう言った。
春巻きを食べ終え、皿の上のレタスもたいらげた後、ゆっくりとコップの水を飲んでいる。
給仕の従業員は店内を忙しく飛び回っていたが、とうとう私のもとに注文を取りに来た。

「えっと、まだ決まってないんですが」

何しろ席に着くなり、先客から春巻きの話を振られて、それに気を取られていたのだ。
テーブルの上に分厚いメニューの冊子はあったが、まだ手をつけていない。
私の反応を受けて従業員がその場を去りかけたとき、向かいの先客が我々に視線を飛ばした。

「いや、そこはとりあえず春巻きでいいでしょう」

私と従業員にそう言った。

「えっ」

私は思わず声をあげた。
先客は、背筋を伸ばしてじっとこちらを見ている。

「春巻きですよ」

目を見開いて、こちらに圧力をかける。
私は、耐えきれずに視線を逸らした。
傍らで従業員も戸惑い、私の反応をうかがっている。
向かいにいる先客の視線は、私の顔に刺さっている。

「……とりあえず、春巻き」

敗北感に潰されながら、私は小声を出した。
いいんですか、と念を入れる従業員にうなずく。
向かいの先客は、表情をほころばせた。

そこの春巻きがどんな味だったのか、味覚が麻痺してまったくわからなかった。
先客は自分の食事が終わった後も向かいに居座って私が食べ終わるのを見張っている。
彼を見ないようにして、私は春巻きを噛み砕く。
食べ終わるなり席を立った。
男性が何か言いかけるのを無言で振り切り、会計を済ませて店を出るのが、唯一私にできた抵抗だった。

所用を済ませ、地元に帰ってから、最寄り駅近くのファーストフード店で心おきなく腹の隙間を満たした。

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