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けめたんとワカコ

けめたんとの出会い

その日も、ワカコはマンションの窓から歌クラブに向かうために、家を出る母の後ろ姿を見送っていた。ふと、背後に柔らかな気配を感じて振り向くと、そこには小さな体を持ち、優しい目をした不思議な存在が浮いていた。

「こんにちは。けめたんと申します。双葉山から来たんよ」と、その存在は自信満々に自己紹介をした。

驚きと疑問を抱えたまま、ワカコはしっかりと相手を見つめた。「何ですか、あなたは?オバケか何か?」と半信半疑で尋ねた。

「まあ、そうかもしれんし、違うかもしれん。話し相手を探して、ここに来たんよ」と、けめたんはあいまいな答えを返した。その不思議な言葉に、ワカコはなぜかしっくりと納得する感覚を覚えた。

日々の重み

「いつも、母さんを見送ってるん?」けめたんが尋ねた。

「ええ、父が亡くなって、母は10年前から一人暮らしをしているんだけど、先月、足を骨折して入院してね。今もリハビリ中だから、少しでも体が慣れるようにと思って、私が実家に戻っているの。でも、数ヶ月限定のつもり。もうすぐ東京に帰るわ」

「なるほど、今だけの二人暮らしなんかあ。たまに一緒にいるのも、違う感じがするんかね」とけめたんが言った。

「そうね…」とワカコは少し遠くを見るように目を細めた。「私も昔は母に世話をしてもらったけれど、今回は逆に、私が母を見守る立場になった感じね」

「お返しかね」とけめたんがぽつりと言った。

母との思い出

ワカコは少し考え込んでから、けめたんに話し始めた。「でもね、私は子供の頃、母から『かわいいね』とか『よしよし』とかって可愛がられた記憶がないのよ。母は、どちらかというと子供が好きではなかったのかもしれない。それでも、きちんと私を育ててくれたし、何不自由なく大人になるまで面倒を見てくれた。それには感謝してるの」

けめたんはうなずきながら耳を傾け、「母さんは、自分の役割を果たしたんだね。きっとワカコのために精一杯やったんよ」と言った。

「たぶん、そうなんだと思うわ。だから、母のことをちゃんと見守ってあげられる今があるのも、なんだか不思議な感じがするのよ」とワカコは自分の気持ちを確かめるように言った。


母との時間

「でも、だからってこの状況が楽なわけじゃないの。東京での生活もあるし。母と過ごすのは今だけと決めているけど、それでも先のことを考えると、どうしても不安になるよ」とワカコは正直な気持ちを漏らした。

けめたんはそっと外を見やり、「ワカコがこうして母さんを見送っている姿、母さんもわかっとるよ。母さんは安心して出かけとるよ」と優しい声で言った。

ワカコはその言葉に少し驚いたようにしながらも、母が小さな歩幅で遠ざかる姿を再び見つめた。「そうかもしれないね。私がここにいることで、母も落ち着いているのなら、今の時間にも少し意味があるかな」と、心に灯がともるような気持ちが湧き上がった。

新たな一歩

けめたんがふわりと浮き上がり、「また来るよ。話してくれて、ありがとう」とほほ笑んだ。

ワカコは近くのテーブルから小さなクッキー缶を手に取り、「よかったらこれ、持って行って。話を聞いてくれたお礼よ」とけめたんにクッキーを差し出した。

「ありがとう!僕はお菓子が大好きじゃけ、うれしいな」とけめたんはにっこりして、クッキーを手に持った。

「じゃあ、またね!」と言ってふわりと窓の外に消えかけた瞬間、ふと足元に視線をやると、そこに小さなクッキーが置かれたままだった。「忘れとるじゃん」とワカコは小さく笑い、クッキーを拾って、皿に置いた。

母が無事に帰ってくるのを待ちながら、ワカコは自分の心が少し軽くなったように感じていた。


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