「捕り」と「受け」
1 古流柔術や合気道では、「型稽古」を行う際に二人一組で稽古するが、「型」に定められた技を仕掛ける側を「捕り」、「捕り」の動きに応じて技を受ける側を「受け」と呼んでいる。
「受け」は基本的に「捕り」の動きに力ずくで抵抗する事はせず、「捕り」の動きに合わせて動かなければならない。「捕り」と「受け」が呼吸を合わせて動いている様が「気を合わせている」ように傍から見える事から「合気」と呼ぶようになった(注1)と聞いたことがある。
また、そうした「気を合わせる」ようなやり取りを「フェイクだ!」と非難する声は絶えない。
注1)私の稽古していた会派における「合気」の定義は別である。
私に言わせれば、「型稽古」を「フェイクだ!」と非難する人々は、「型稽古」を何のために行っているのか?という、「型稽古」の目的を全く分かっていない。
「型稽古」において、予め定められた「型」を手順通り遂行するだけでも、相当の修練がいる。「型稽古」を経験した事のない人は、技を掛けるのに修練が要るのは「捕り」の方だけだと思われるかもしれないが、実は「受け」の方にも相応の技量が求められる。「捕り」が初心者の場合はそれが顕著で、「受け」が定められた「型」の手順通りに動いて「捕り」を導いてやらなければ、「捕り」はいつまで経っても上達しない。
「型稽古」の目的は、「捕り」と「受け」が定められた「型」の反復を通して、「型」に込められた理合を理解し、その理合を体現するのに必要な身体の使い方を覚えるためにある。
したがって、「型稽古」を他の格闘技やコンタクトスポーツの練習に(無理やり)当てはめるならば、それは「スパーリング」や「乱取り」ではなく、「打ち込み」ないし「ドリル」に対応すると考えるべきだろう。
「型稽古」を「スパーリング」や「乱取り」だと思って、その稽古風景を見れば、「フェイクだ!」と思うのも当然だが、そういう人々に限って、ミット打ちやテクニックドリルを軽視しているように感じる。
「型稽古」は二人一組で行うため、パートナーの存在が不可欠である。パートナーのいない「型稽古」というのは形容矛盾とすら言えよう。
「スパーリング」のない古流柔術ですら、(「型」の終末動作として定められた)「極め」の荒い手合いがいる。「極め」で相手を痛めつける事が武術だと勘違いしている白帯だけでなく、相手を痛めつける事で上下関係?のような序列を分からせようとする黒帯もいる。だが、長期的に見れば彼らの上達は必ず止まる。理由は極めて明白で、誰だって怪我をするのは(あるいは、理由もないのに痛い思いをするのは)嫌だから、そうした「極め」の荒い「捕り」の「受け」を好き好んでやろうと言う人は誰もいないからである。
他人を痛めつける事で快感を得るタイプは勿論、自己顕示欲の塊のような手合いは、「型稽古」のパートナーがいなくなるので、いずれは道場内で孤立し、稽古自体が出来なくなってしまう(最終的には道場を去る事になる)。
2 私がBJJを始めた時から、ウチの道場にも「基本ドリル」は存在した。毎日毎日それを繰り返すわけだが、先達の中にはドリルの「受け」をするのが嫌いな人間が何人かいて、私がドリルの「捕り」をやっていると「早く終わらせろ!」という態度を露骨に示す者もいた。
古流で「型稽古」に馴染んだ私には、「受け」を嫌がるという先達(の一部)の発想が理解できなかったが、今にして思えば、テクニックドリルを「受け」るだけでも(多少は)疲れるし、何よりそれによって「受け」る側には何のメリットもなく、体力と時間の無駄のようにしか彼らには思えなかったのだろう。
先に「型稽古」では「受け」にも相応の技量が求められると書いたが、それは受身の技術があるというだけの意味ではなく、「型」の理合を理解し、その表現に必要な身体動作を習熟している事が求められるという意味である。
そうした意味での「受け」の技量が上がってくれば、後進の「捕り」の「受け」を取っていても、「捕り」には何が足りないのか?身体の使い方のどこが間違っているのか?という観察を通して、自分の「型」を見直す契機になるし、「型」の理合に気付きを与えてくれる事すらある。
ジョン・ダナハーの言を引いて、BJJ・グラップリングの各種テクニック(move)には、そのテクニックを成り立たしめている複数のmovementが存在すると以前書いたが、テクニックドリルにおいても「型稽古」と同じように、対人打ち込みを繰り返す中で、その再現に必要な身体の使い方(movement)を学び、理合を会得するというプロセスがあるように思う。
私は白帯の時から稽古終了後に、道場の若い子と「テクニック」打ち込みを繰り返していた。「ストレートアンクルロック」を例に取ると、私がこれを習得するまでに1年以上掛かった。その間、私にとって一番有難かったのは、「受け」をしてくれた道場の若い子が私の「ストレートアンクルロック」が効いているか否か、どうしたらもっと良くなるか?という点について、打ち込みの度に感想をくれた事である。そうして、彼が効いていないと答えた時と、効いていると答えた時の比較検討を通してなんとなく理解した「ストレートアンクルロック」の理合の仮説と、その検証のためにさらに打ち込みを繰り返すことを通じて、なんとか「ストレートアンクルロック」を覚える事が出来た。
彼が打ち込みの「受け」として私にくれたアドバイスの数々は、「型稽古」における「受け」の有り方そのものと言ってよい。
残念ながら、私は当時と比べてさほど強くなってはいないが、彼は今では(全国的な知名度はなくても)非常に強くて心優しい柔術家になった。PEDを使えば、全日本も夢ではないだろう。
私が「テクニック」打ち込みを始めた当時、「基本ドリル」の「受け」を取る事を嫌がっていた先達は私の事を陰でバカにしていたらしいが、今道場に彼らは一人もいない。
YOUTUBEや教則を見ただけなのにも関わらず、「テクニックを知っている」と豪語する者もいたが、「テクニックドリル」を一切せず、「スパーリング」の中でテクニックを試して覚えようとしていたので、1年2年経ってもテクニックは全然増えていない。
テクニックは打ち込みをして、理合を会得し、その再現に必要なmovementを習得していなければ、それを「スパーリング」や「試合」の中で使いこなすことは不可能だと言う事が彼らには最後まで分からなかったらしい。
3 「テクニックドリル」ないし打ち込みを「フェイクだ!」という人はいないだろうが、「型稽古」を「フェイクだ!」という人々が「テクニックドリル」を軽視するのもある意味では当然だと思う。
彼らは「何のために、何をやるか?」という練習の目的論をまず考えていない。テクニックを覚えるためには、YOUTUBEや教則を見るだけではダメで、それを自分のモノにするために理合を会得し、それに必要なmovementを習得するためにドリルを繰り返さなければならない。
どんなに身体能力が高くてもその点、つまり、ドリルの必要性が分からない人は、最初はフィジカルで相手を押し切れるかもしれないが、そこから先のレベルに進むことは出来ないと私は思っている。
自分の意見の正しさを他人の言によって権威づける事はなるべく避けようと心掛けているのだが、この話は強く印象に残ったので、ここに記しておく。
ミカ・ガルヴァオンが以前マイキー・ムスメシに会った時に「自分はドリルに一日2時間割いていますが、マイキーあなたはどうされていますか?」と尋ねたら、マイキーは「一日4時間はやっているよ。基本は大事だからね」と答えたそうである。それを聞いて、ミカは「もっと基本ドリルの時間を増やそう」と決めたらしい(注2)。
注2)あくまでも伝聞で、元記事を見付けられなかった。その点をご了承頂きたい。
仮に彼らが一日8時間練習しているとして、毎日6時間もスパーリングをこなすのは肉体的に無理があろう。その意味で、ドリルを一日4時間行うというのは、それが怪我を防ぎつつ、練習効率を最大化するためのマイキーの最適解だというだけの話かもしれない。
ただ、1日2時間・週に2~3回しか練習時間が確保できないBJJライト・中間層にとって、マイキーが「基本は大事だ」と言って「ドリルを重視している」のは参考にしてよいと思う。
少なくとも私は、やみくもに「スパーリング」をこなす時間があったら、「ドリル」(「テクニックドリル」と「ソロドリル」の両方を含む)に時間を割いた方がいいと考えている。
そして、柔術が上達するひとつの近道があるとすれば、「良き打ち込みパートナー」を見付ける事だと断言出来る。そういう「パートナー」を見付ける事が出来るのは「武運がいい」と言えるし、私は道場の「打ち込みパートナー」の子にいつも感謝している。