継続は疲れる

1 タイトルは、私が子供の頃たまたまTVを見ていて長嶋一茂が語った言葉である。なるほど、一理ある。
 4月から進学や就職で他県に引っ越すので、ウチの道場を退会する若者が今年もいる。
 あるインストラクターの先生が、彼にはなむけとして送った言葉を要約してここに紹介する。
 「私から言えるのは、『続ける者こそが最強だ』という事です。私がこれまで柔術をやってきた中で数多くの人と触れ合う機会がありました。中には柔道の全日本クラスの人もいて、本当に強くて才能にも恵まれていると感じました。でも、その彼もたった1週間で柔術を辞めてしまって、才能が勿体ないとその時つくづく思ったモノです。だから、自分に才能があるかないかを悩むより、たとえ週1回でもいいから練習を続けること、これこそが格闘技を続ける上で一番大事なポイントだと私は思います。止めてしまえば、0です。」
 私もこの先生と全く同意見である。
 以前も書いたが、私はBJJを始めた時は道場内でも絶望的に弱かった。最初の1年間は5分スパーで5本取られて当たり前。あまりにも弱すぎて、古参の会員の中には私では練習にならないからスパーしたがらない方もおられた。
 勿論、古参の会員の中にも優しい方はいて、極めは「寸止め」でリリースして下さるし、新しく習得しようという技術の練習相手に私とスパーして下さる方もいたので、私が最初の1年を乗り越えられたのはそういう方々のお陰だったと感謝している。

2 さて、私がBJJを始めてそれなりの時間が経過した今では、私が入会当時に在籍していた会員の大半はもう道場にいない。
 仕事の都合で余所に移られた方もおられるが、大半の方はBJJそのものを止めてしまったようである。
 個人的に始末に負えないと思っているのは、ここ数年練習には全く来ないで、新しく会員が入会する度にSNS上でかつて獲得したタイトルを誇示する人である。
 日本のBJJ村ではかつて獲ったタイトルや戦績と言った肩書で相手にマウンティングしたがる人が時々いるが、私は彼らに接していると「本当に幸せな人だなあ」と思ってします。
 彼らがどれだけ世間が見えていない、おめでたい発想をしているかは次のようなちょっとした思考実験で分かるだろう。
 先月JBJJF主催の全日本マスター選手権が行われたが、そこで優勝された方の名前を貴方は何人知っているだろうか?
 誤解のないように書いておくが、そこで優勝された方の価値を否定する気は全くない。
 だが、全日本マスター選手権で優勝した方の名前を知っている人は日本の中でもせいぜい1000人に満たないのではないだろうか。
 これに対して、千葉マリンスタジアムにプロ野球の応援をしに行く人々が2万5千にいるとして、この人々は「千葉ロッテマリーンズの9番打者」を知っているか、少なくとも球場を後にする時には名前を憶えているだろう。
 「千葉ロッテマリーンズの9番打者」が誰かは、ロッテファンの数を考えれば、2万よりはるかに多いはずである。
 そう、BJJのタイトル保持者の知名度は、「千葉ロッテマリーンズの9番打者」と比べても桁違いに低いのである。こう言ってしまえば、BJJをやっていない世間一般の人にとっては、全くの無名人である。
 それにも関わらず、そのタイトルの価値の承認を試合に興味のない人、あまつさえ柔術経験のない一般人に求めるのは、非常に世間ずれした奇矯な振る舞いと言わざるを得ない。
 そして、かつて獲ったタイトルの価値を失わないためなのか、今では練習にも来ないし、試合に出る事もない。彼は柔術が好きなのではなく、自分の承認欲求を満たすための手段としてたまたま柔術をやっているだけなのだろう。

3 他人に評価されて自己の承認欲求を満たすために武術を稽古するのは止めた方がいい。それでは上の帯に上がったり、年を取って試合に勝てなくなった時に承認欲求が満たされず、稽古を続けるモチベーションがなくなる。
 武術の稽古はまずもって「自分のため」にやるものだと私は考えている。確かに「継続は疲れる」が、続けていれば必ず実力は後から付いてくる。
 自分の経験から言って、特にBJJは稽古量が上達に直結する。身体能力がモノを言うのは最初の数年だけで、後はどれだけ稽古したかにその人の技量の伸びはかかっていると思う。
 その意味では武術も「継続は力なり」が妥当する世界である。「いくつになっても今から始めて遅すぎるという事はない。反対に、続かない努力に意味はない」とはフランスの思想家アランの言葉であるが、私もそう思う。
 試合に出るなら、タイトルを獲ってその上に胡坐をかいてしまう人より、負けてもいいから出続ける人の方に私は敬意を払う。
 
 

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