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誰がためのオリンピック(三)

1 コロナ禍に伴う行動制限が解除されて、はや一年以上が経過した。

 現実には、街中でマスクをしている人を未だに見掛けるし、私もパリオリンピック中に新型コロナウィルスの症状が出て苦しんだ。

 コロナ禍によって、人々の生活様式が少なからず変化したのは事実だし、「ポスト・コロナ」「アフター・コロナ」と呼ばれる世界では、コロナ禍前と同じ日常が帰ってくるわけではないという事なのだろう。

 ただ、少なくとも行動制限を伴うようなコロナ禍から、「ポスト・コロナ」への転換を示す象徴的な出来事がひとつあった。

 BJJ Fanaticsから「コロナ禍で道場に通えない人々を支援する」目的で無料配布されていた各種教則が、Fanaticsのラインナップからつい先日削除されていた。

 その多くは有料化されているが、ゴードン・ライアンのHigh Percentage Gi Passesのように存在自体が抹消されてしまったモノもある(ライブラリ内にある限りは視聴可能)。

 この記事で取り上げている、ジョン・ダナハーのSolo BJJ Training Drills は、(ラインナップからは削除されているが)現時点ではまだ入手可能なので、興味のある方は早めの入手をお勧めする。

2 さて、パリオリンピックの際、阿部詩選手に対してなされたバッシングについて、私が思った事をこれまでも記事にまとめて来た。

 そこでは、「正義というエンタテインメント」に酔うネット民の有り様と、彼らが正義を振りかざす際に用いる「武道精神」という概念の虚構性について批判した。

 パリオリンピックから月日も経ってしまったし、これ以上同じ話題で記事を書くのもどうか・・・というためらいはある。

 ただ、新型コロナウィルスの症状が出て寝込んでいる際に、この件について「そもそもネット民達に阿部選手を非難する資格があるのだろうか?」という疑問を抱いた事が、一連の記事を執筆する動機になったので、本稿ではその疑問に対する私なりの意見を述べてみたい。

 近代オリンピックの起源である古代ギリシアで行われたオリンピア競技祭において、選手達はそれぞれ自らが所属するポリス(都市国家)を代表して競技に参加していた。

 古代ギリシアのポリスにおいて、市民権があるのは成人男性に限られ(とりあえず、アテナイとスパルタを念頭に置いている)、外国人や奴隷は勿論、女性や子供にも市民権が認められなかった。
 市民権が認められる前提が、ポリス間で行われる戦争に従事する義務を果たす事にあったため、市民権の認められる範囲が上述した範囲に限られたのもやむなしと言うべきではあるが、外国人や子供にも認められる(現代的な)基本的人権と古代ギリシアの市民権が全く別個の概念であった事は容易に想像できるだろう。

 先に、オリンピア競技会に出場した選手達は、ポリスを代表して競技に挑んだと書いたが、彼等は市民を代表していたわけではない。
 あくまでも彼等は、「ポリスを代表して」競技に参加していたのである。

 これと同様に、現代オリンピックにおいても、選手達は彼ら彼女らが属する国を代表して戦っているのであって、国民を代表して戦っているわけではない。

 もし、選手達が国会議員のように「全国民の代表」であるならば、オリンピックにおける選手達の振る舞いや競技結果に対して、「国民」という資格に基づいて、彼ら彼女らを非難する事も許されよう。

 しかしながら、オリンピックに出場する選手達は、各競技団体によって選出され、我々国民が選挙によって代表を選んでいるわけではない、という点に注意が必要だ。

3 オリンピックに出場する選手達を非難するネット民は、国家は国民を代表し、選手も国家を代表しているから、選手は国民の代表であるかのような錯覚を犯しているが、実際には、国家が国民を代表する過程と選手が国家を代表する過程は連続しておらず、国民と選手の間には何のつながりもない。

 要するに、ネット民達は国民=国家=選手という代表図式が成り立っていると考えているのだろうが、選手は国民ではなく、国家を代表しているに過ぎないので、国民=選手という代表図式は成り立っていない。

 ただ、近代オリンピックにおいては、ナチスドイツ下のベルリン五輪(1936年)に象徴的に見られたように、国民=国家=選手という擬似代表図式が悪用されて、国威発揚に用いられるケースが存在するのもまた事実である。

 コロナ禍で行われた2021年の東京オリンピックも、そうした擬似代表図式を用いて、人心をコロナ禍から紛らわすのにオリンピックを政治的に利用した一例と見るべきだろう。

 国民=国家=選手という代表図式が成り立たない理由は先に説明した通りだが、この擬似ストーリーに騙されてしまうネット民達の心性を考えると、彼ら彼女らは、学校や職場・家族・地域社会といったリアルな世界に身の置き場がなく(=承認欲求が満たされず)、最終的に自分が「日本国民である」という一点にしかプライドが持てない人々なのではないかと予想される。

 だから、彼ら彼女らは国家=選手という代表図式の当事者ではないにもかかわらず、「日本国民である」自己と「日本国」を同一化させて(それは錯覚に過ぎないのだが)、「日本国」の立場からそれを代表する選手達を非難しているのだろう。

 オリンピックに出場する選手が「国を代表して戦う」という発言をしてたのに対して、「何様のつもりか。気持ち悪い」という反応を返すのも、国民=国家=選手という代表図式が成り立っていると錯覚するがゆえに、出場選手があたかも自分を代表しているかのように聞こえて拒絶反応を起こしているのだろう。

 オリンピックやプロスポーツの選手達の活躍に胸を躍らせ、彼ら彼女らの偉業に声援を送るのは結構な事である。

 だが、オリンピック選手達は、我々ひとりひとりを代表して戦っているのではない。
 
 オリンピック選手の動静を非難する人の全てがそうだ、という訳ではないが、少なくない割合でそうした人々の中に、「日本国民」である事以外に何のプライドも持ちようがなく、自分と「日本国」を過剰に自己同一化させ、ネットにしか居場所がなくなってしまった人が存在するのかもしれない。
 
 それが本当だとすれば、淋しい話である。

 
 


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