誰がためのオリンピック(一)

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1 パリオリンピックが始まった直後に新型コロナウィルスに罹患し、隔離生活を余儀なくされたため、大半の競技を観戦する事が出来なかった。

 楽しみにしていた「ブレイキン」もリアルタイムでは見られず、今回のオリンピックは、少なくとも私にとっては、ほとんど記憶に残らない大会になってしまった。

 ただ、柔道女子52kg級の阿部詩選手が初戦で敗北、試合後に号泣して畳から離れられなかった件について、ネット上で凄まじいバッシングを受けていた事はよく覚えている。

 私も人並みに他人の悪口を言う事はある。

 他人の悪口を言わないで済むならそれに越したことはないと思うが、完璧でも超人でもない私にはなかなか難しい。

 とはいえ、そんな私ですら誰に対しても悪口を述べているわけではない。

 悪口を述べるに際しての厳密な(内的・私的)ルールを定めているわけではないが、①自分と面識があり、なおかつ②自分に害をなす対象について、③特定かつ少数の人にしか(言い換えれば、SNSのような不特定多数の人々に悪口が伝播する可能性がある媒体は使わない)、これを伝えないようにしている(つもりである)。

 阿部選手に対するネット上でのバッシングを扱った記事(Yahoo!ニュース)のコメント欄には、これでもか!という程の罵詈雑言が書き散らかされていた。
 
 (あくまでも「本記事の素材として使えなかった」という意味で)残念ながら、該当するニュースは削除されてしまっていたが、そうしたコメントの当否は勿論の事、こうしたコメントを書く人々は一体全体どういう資格で阿部選手を非難しているのだろう?という疑問が次々に湧いてきた。

 阿部選手を非難するコメントの当否や資格の問題を措いても(この点については、後日別記事にまとめるつもりでいる)、①自分と面識がなく、②自分に直接的な害をもたらすわけでもない対象について、③不特定多数に向かって、ボロクソにこき下ろしてみせる人々のメンタリティというのが私には正直言ってよく分からない。

2 阿部選手の一件は、ヤフコメに代表される「正義というエンタテインメント」(意味については後述する)の例になるが、この種のエンタテインメントが登場する背景について、橘玲氏の『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書)に分かりやすい説明が記載されていたので、要約引用しておこう。

 「我々は、自分より「ステイタス」(社会・経済的地位)の高い者と比べるときに痛みを、ステイタスの低い者と比べるときに快感を覚えるよう脳が設計されている。

 ステイタスを上げるには、「成功」「支配」「美徳」の3つの戦略がある。

 「成功」とは、自分が成功者であることを見せびらかす事(豪邸に住み、ブランドものに身を包むような本物の成功者でなければ出来ないような顕示的消費をする)であり、「支配」とは、高い権威によってステイタスを示す事である(会社で出世して、上司が部下の上に立つ場合を想起すればよい)。
 「成功」や「支配」戦略で成功できる人というのは、金持ちになる、あるいは、社長になれる人の数を考えてみれば分かるように、ごく限られている。

 これに対して、「美徳」戦略においては、自分の方が相手よりも道徳的に優れていると誇示すればいい。 
 「美徳」戦略においては、道徳律を体現し、共同体から高い評判を獲得した者が勝者となるが、そうした絶対的な「道徳的地位」を得る以外に、もっと簡単で効果的な勝ち方がある。
 
 それが、不道徳な者を探し出し、「正義」を振りかざして叩くことで、自分の道徳的な地位を「相対的に」引き上げ、美徳を誇示する戦略である。

 ・・・このようにして、成功ゲームや支配ゲームをうまくプレイできない(その多くはステイタスの低い)者たちが、大挙して美徳ゲームになだれ込んでくるようになった。
 正義の名の下に他者を糾弾することは、社会的・経済的地位に関係なく誰でも出来るし、SNSはそれを匿名かつローコスト(ただ)で行うことを可能にした。」(『世界はなぜ地獄になるのか』PART4より)
 
3 今回の一件において見られたネット上の罵詈雑言は、阿部選手の試合後の振る舞いを、「礼に始まり礼に終わる武道精神に反する」「日本の恥」などと糾弾し(本当にそうだろうか?)、それによって匿名氏(=コメント民)の道徳的地位を相対的に引き上げ、「美徳」ゲームの勝者として、カタルシスを得ようという「 正義という(=正義の名の下に行われる)エンタテインメント」を楽しんでいるに過ぎない。

 だが、阿部選手をいくら批判しても、匿名氏達の「絶対的な」道徳的な地位は一切上昇していない(阿部選手を批判する事で、コメント民達が美徳を積む事にはならない)。
 
 私は「成功」「支配」「美徳」いずれのゲームにおいても、勝者ではないが、少なくとも次の点だけはハッキリと断言していいと思う。

 「正義というエンタテインメント」においては、(橘氏の説明にもあるように)「ステイタス」ゲームの敗者であるという立場からしか、自分より社会的経済的「ステイタス」高い人を攻撃できない(論理的には、「成功」「支配」ゲームの勝者が、「美徳」ゲームに参加する可能性もあり得るが、既に高い「ステイタス」を得ている人間が、わざわざ「美徳」ゲームに参加するインセンティブはほとんどないだろう)。

 つまり、「正義というエンタテインメント」に酔っている人々は、「成功」「支配」「(絶対的)美徳」ゲームの全ての面において敗者であり、また、自分が敗者であり続ける事に(無意識に)安住してしまっているという事である。

 「正義というエンタテインメント」に参加する資格が、自分が負け犬である事を受け入れ、自己研鑽を放棄する事にあるのだとしたら、私はそのようなエンタテインメントは真っ平ご免だと言いたい。


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藤田 正和
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