「シン」の系譜3-3
朝ドラおしん
同音のシンに複数の意味が託されているケースは、昭和時代の映像作品にも見出せる。「シン」という片仮名表記には至らず、また「新」何々や「シン」何々といった接頭辞的な使い方にも達していないが、同音の漢字の掛け合わせという点では同じ系譜上にある。
NHK連続テレビ小説の第31作となった朝ドラ『おしん』は、昭和58年(1983)から翌年まで放送され、昭和時代の国民的なヒット作となった。谷村しん(のち田倉しん)の一代記で、「奉公、髪結い修業、結婚、戦争、スーパー経営などのさまざまな辛酸をなめながら、女性としての生き方、家族のありようを模索しつつ必死に生きる姿を描いた」(NHKアーカイブスより)ドラマだった。
放映された当時は、世の中がバブル経済に向かおうとしていた頃だったため、かえって非日常的で新鮮に受け止められていた。平均視聴率は50パーセントを超え、最高視聴率は60パーセントを上回った。統計史上、テレビドラマの最高視聴率となっている。視聴する媒体が多様化した現在では、更新が困難な記録となっている。
原作は脚本家の橋田寿賀子によって書かれ、主役のおしん(小林綾子・田中裕子・音羽信子)が演じる時代の設定は明治40年(1907)から昭和59年(1984)に及ぶ。橋田によれば、執筆の発端になったのは昭和54年(1979)に自分宛に寄せられた1通の手紙だった。月刊誌『主婦と生活』に連載していた「母たちの遺産」に送られたもので、静岡県の榛原郡出身だった丸山静江の過酷な半生が、次女の千鶴子によって代筆されていた。この実話に着想を得て脚本が書かれ、ドラマ化されるに至ったが、具体的な主人公のモデルが存在したわけではなかった。
物語は明治40年の春、山形県の貧しい小作農家の娘だった谷村しんの少女時代から始まる。数え年で7歳になり、4月から尋常小学校に通うのを心待ちにしていたが、凶作続きで地主への借りも膨れ上がり、家族は大根飯で食いつないでいた。父親の作造は、口減らしのためにおしんに奉公に出るよう命じた。口入れ屋(斡旋業)の源助が年季奉公の前払いの米1俵を届け、入れ替わりにおしんは材木問屋の奉公人だった定次の筏に乗って最上川を下った。途中、堤防の上を走って自分を追いかける作造が泣き崩れる姿を目撃し、父も心苦しかったことをおしんは知った。まだ幼いおしんが筏で最上川を下るシーンは、名場面のひとつに数えられている。
タイトルの「おしん」は、主人公の谷村しんの名前から採られている。物語の至る所で、苦難に耐え続ける主人公の辛抱強さが描かれたこともあり、「おしんのしんは辛抱のしん」と受け止められた。それと関連づけて、辛抱の精神を呼びかける現象まで巻き起こった。しかし橋田は、辛抱を描いたドラマではないと発言し、自粛を呼びかけていた。
「おしん」というネーミングの由来については、後年に改めて語られたインタビューがある(『スポーツニッポン』2018年4月12日付「朝ドラ人気ヒロインの名前由来は? おしん、め以子、谷田部みね子…」)。その記事によると、「信じる、信念、心、辛抱、芯、新、真」などの「しん」の意味が込められていたと明かされている。さらに「日本人は豊かさと引き換えに、さまざまな“しん”を忘れてしまったのではないかという思いを込めて名付けた」と、橋田は付け加えている。バブル期に向かおうとしていた時代であれば、なおさら貧困時代の苦労を忘れてしまったのではないかと思えたかもしれない。
ちなみに女性の名前については、江戸時代には「新」の字が使われる機会は乏しかった。そもそも2文字の平仮名で書かれるのが一般的で、漢字は使用されなかった。その平仮名も「きく」や「かめ」などのように、もとの漢字がわかるものが一般的だった。名前から花や生き物などの姿がイメージできる時点で、読みは訓読みが主流であり、最初に「お」を付けて「おきく」「おかめ」などと呼ばれていた。
明治23年(1890)、アメリカから来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治33年(1900)に「Japanese Female Names(日本の婦人名)」と題する一文を書いている(平井呈一訳『全訳 小泉八雲全集』第9巻、所収)。日本人の女性の名前について、「花の名前で呼ばれる」とか「大部分の日本女性の名前は、美しさより「たか(貴)」「とし(年)」といった道徳とか長寿に重きが置かれている」などと、新鮮な驚きを率直に語っている。
明治時代も中盤にさしかかる頃になると、小説や脚本などに登場する女性に「松」や「竹」などと漢字を当てて書かれる事例が増えてきた。明治後期からは、公家の伝統だった「子」の字を末尾に付ける形も普及している。明治45年(1912)の女性名の人気ベストテンは、1位が「千代」で、2位以下が「ハル」「ハナ」「正子」「文子」「ヨシ」「千代子」「キヨ」「静子」「はる」というデータが公開されている(明治安田生命調べ。過去の加入者の生年月日にもとづく集計より)。以後実施された大正時代のランキングでも、漢字であれ仮名であれ、名前は訓読みが大半を占めている。
明治時代の小説には、「お新」とともに「お真」も登場している。ただし「お信」については、訓でオノブと読ませていることが多い。ドラマで晩年のおしんを演じた音羽信子の「信」も、「のぶ」だった。その意味で「お信」は、漢字を音読みにした女性名が増えた昭和時代の発想によるネーミングだったと考えられる。
なお昭和44年(1969)から放送が開始されたTBS系列のテレビ時代劇『水戸黄門』には、風車の弥七の妻で、くの一の「霞のお新」が登場していた。主役の徳川光圀(水戸の御老公。初代は東野英治郎)一行の紅一点として諸国漫遊の旅に同行し、光圀の隠密役も務めている。弥七の元親分で、忍び崩れの義賊だった野ぶすま(野衾。江戸の妖怪)の仁平の一人娘という設定になっている。明治以降に書かれた時代物なら、江戸時代を舞台にした作品の人物名であっても「お新」はありうる。
本題の『おしん』に戻ると、「信」の字を筆頭にして漢字表記の候補はいくつかあったのに、主人公の名は仮名書きの「おしん」だった。漢字1字に決めると、その字面のイメージが前面に出過ぎるため、ドラマのタイトルはあえて仮名書きにしてあった。仮名2文字という伝統的な女性名のスタイルは明治時代にも残っていたから、平仮名の名前は自然に受け入れられていた。
企画の段階では、テーマが地味すぎてヒットは見込めないとする悲観的な見方もあった。ところが予想は良い意味で裏切られ、フタを開けてみると好評を博し、国内ばかりか世界的にも大ヒットした。シンガポール、タイやオーストラリア、アメリカ、中国など世界各国や地域で放送されている。当時、アジア発の作品の世界的なブレイクは珍しく、これだけの人気度は前例がなかった。
広く知られるようになると、今度はタイトルに新たな課題が発生した。日本語タイトルなら仮名書きの「おしん」が成立しても、漢字文化圏では何か1文字の漢字に確定しなければならなくなった。そして中国語タイトルは最終的に「阿信的故事」に決まり、「おしん」は「阿信(アーシン)」と訳された。「阿(アー)」とは、親しみを込めて人名の前につける愛称の接頭辞で、日本語の「さん」や「ちゃん」に相当する。つまり中国では、「おしん」を「お信ちゃん」と表記していた。「信」は原作者の橋田が念頭に置いていた字でもあり、1字に絞るなら最終的にはこれに行き着いたのだろう。
世界を席巻したドラマ「おしん」の人気には、おしん症候群を意味する「おしんドローム(Oshindorome)」という造語まで生み出された。英語であらわすとき、ローマ字表記の「Oshin」を使えば「しん」の重層性の問題が表面化せずに済んでいた。漢字文化圏の場合のみ、漢訳する必要性から新たな選択を迫られていた。英語教育に力を入れてきた台湾では、「阿信」とともに「OSHIN」も使われていた。
『おしん』の「しん」については、「真」も「新」も中心的な位置にはなかった。明治以降に本格化した、同音のシンを掛け合わせる手法の歩みから見ると目新しかった。これもまた、「シン」の奥深さを物語る一面になっている。