Blue植物化❺〜テッド的なものからは逃げねばならない。
ハルキムラカミの《海辺のカフカ》を
読み終わり、今は、
ジョン・アーヴィング
《未亡人の一年 上》を読んでいる。
この本を初めて読んだとき、
物語の素晴らしさとは別に、
《読みづらさ》が、あった。
なぜなら、
登場する主人物の、ひとり、
美しいマリアン(39才)の夫、
女たらしで、酒飲みで
絵本作家の、ハンサムなテッド(45才)
が、絶えず、
《獲物》として
女たち、を、まなざすからだ。
テッドは、目の前に現れた
おんな、に、見惚れたり、は、しない。
恋に落ちて、《彼女》を欲するのではない。
ただただ、
《陥落》させるために
狙いを定め、
こころの深いところから
触手を伸ばし、
彼女の《心身》を
奪おうと、する。
好みの範疇か? とは、考える。
問題外なのは、彼の目には入らない。
しかし、多少の欠落は、
彼の、性的な興味をかきたてる。
例えば、書店で出会った
ふっくらとした十代の娘グローリーと
痩せ細った、その母親への《興味》は、
とても、グロテスクで残酷だ。
若かったわたしは、
本のなかでテッドに出会い、理解した。
世で出会う、
男のひとの半分、いや6割が
テッドのようなまなざしで、
おんなたちを視て、時に
近づいてくるのだ、と悟った。
学生の頃、
アルバイト先で給仕した
見知らぬ40代の男性に
『痩せれば、有り』
と、囁かれたことがある。
そのひとは、汗で皺になった
ワイシャツを着て、
お腹はだぶついていて、
部下に、課長と呼ばれていた。
生ハムのサラダや
ピザを運びながら、
わたしは、傷ついていた。
なぜ、見知らぬ男が
わたしにそのようなことを言うのか?
理解できなかった。
たまたま、そのひとが
奇妙なひと、なのだろうと思い、
混乱を収めたが、
汚いもので触られたような
感触が、こころに残った。
しかし、そんなことは
度々、人生に起こった。
例えば、
町内の子ども会の役員になったとき
自治会のご老人との飲み会に出なければならず、
(それは、義務、であった)
彼らの数人が
『今年の子ども会のお母さんたちは
代替わりしたのか、若くて、良い。
去年のメンバーは、ひどかった。
あんなおばさんたちじゃ、つまらない』
『そうだ、そうだ』
『今年は酒がうまい』
と、ビールを注ぐ役目のわたしたちに
聞こえるのもお構無しに、喋っていた。
自治会のおじいさんたち、が
町内に住む、こどもを育てている母親たちを
テッドのように《まなざす》こと
は、トテモオソロシイコト、と
わたしには、思えた。
今も、ソンナコト、は
怒り続けている。
さて、Blue植物化を
志してから、
ダイエットとは
こういった、まなざし、から
逃れること、への手段として
ベクトルを向ければ
とても楽しい、と気づいた。
引き締まった腹部、
弓のような背すじ
重力にさからうヒップ
しなやかな太もも
すい、と、伸びた首
チカラを蓄えた、二の腕
それは、まなざされること、を
拒否するチカラを、持つ。
わたしの好きなように
わたしが思うように
と、生きるチカラになる。
テッドは、悲しみや不幸や
コンプレックスを表情や
カラダつきにたたえた、
おんなたちを、選んで
獲物にして、
がらんどう、に、した。
それは、彼の、《万能感》のタンクを
満タンにするため、必要なのだ。
この万能感は、けっして
男からは得られないもの、らしい
と、わたしは、今更、知る。
(もしかしたら、パワハラ的なものは
それに代わるかもしれない)
テッド的なもの、からは、
逃げねばならない。
闘わなければならない。
(それは、昨今の政治にもある)