立葵ファンファーレの日。
2023.6.16
立葵の花が
いちばん上まで咲いたら
梅雨が明けて、盛夏が来る
と、そんなことを聞いたのは
何時のころ、だっだろう。
俳句に夢中だった
24.5才の頃、かもしれない。
そういったことを
俳人の随筆かなにかで
読んだのかもしれない。
幼いころ、
夏の道を歩いていて
ふいに、道の辻や
電車の踏切近くに咲く、
立葵の花が、好きだった。
子どものわたしより、
うんと背が高く、
麦藁帽子のつば、が、
おでこの上にずれるほど
その赤や白い花を
見上げた、夏の、
余白のような時間を憶えている。
そして、また、
何時のころから、だろう。
立葵は、盛夏を生きるモノたちへ
エールとして、鮮やかな
ファンファーレを吹いている
なんて空想をするようになったのは。
立葵ファンファーレ、なんていう
ちいさなオハナシも、春に書いて、
父が倒れて、留守になった庭の
ナンニモナカッタところに、
立葵の種を蒔いて、
(庭に来て、ほしかった)
今年のjuneに、ようやく
会うことができた。
さて、日傘をさしながら
庭をひとまわり。
芽が出ないなあ、と
心配していた、ホーリーバジルさん。
暑さに、顔を出してくれた。
もう何年も花を咲かせなかった
梔子の花が、今年は咲いてくれている。
うれしさに、胸が弾む。
庭の花が咲いた、
なんて、
誰かに話すほど、でもない
些細なことだ。
でも、わたしは、そんな、
些細なことばかり
誰かに、話したくなってしまう。
でも、それは、
ナンデモナイコト、として
《ある場所》では、
スルーされてしまう。
稼いだあと、お酒を飲んだりする。
そんなときは、ほんとうに
見向きもされない。
庭から、もっとも遠い場所に
パワーのある、男たちが棲んでいる。
利権追求が見え隠れする政局などを
観ている、と、ふと、そう思う。
彼らは、支配できるモノが好きだ。
カネオンナノニクタイブカムスコグンタイ。
もしかしたら、
庭のハナシなぞする男は、
もはや、群れから脱落した、
弱い個体だ、と、
みなされるのかもしれない、
とも、思う。
そういえば、
去年あたり、パート先で
営業職を降りた
嘱託社員の老男性が
しきりに、
『俺たちは運命共同体だよ
利益があがらなければ
俺たちから、切られるんだ』
と、昼休みに、
パートのわたしに諭してきた。
『営業のヤツラが
稼いでくれるから、
俺たちの給料が出るんだよ』
と、嘆かわしげに、言い
『俺がクビになるなら
きみも当然、なるんだよ。
もしかしたら、
きみのほうが早いかもしれない』
なんてことも、ちらちらと
仄めかした。
わたしは、同意しなかった。
はあ、と、曖昧に
声を漏らしただけである。
『そうなったら、
別の場所で、働きます』
と、朗らかに返した。
内心、
こちとら、
そんなようなことを
社会から、ずっと
言われ続けているのさ
いまさら、こわくないのよ
でも、あなたは、いま、
こわくなったのね、と
思いながら、
こんな時間にこそ、
老男性と
庭の花が、半年を経て
ようやく咲いた、なんて
ハナシができたら良いのに、
とも、思った。
さてさて、夏至前の庭は
いつまでも明るく
この日、
わたしは、よく働いた。
明日も晴れるらしい。
独り、立葵ファンファーレを聞こう。