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ローズマリーが咲く頃に

 It’s 10:00 A.M.
 昨夜の豪雨も去り、梅雨明けを待てない蝉達の声が賑わいを見せている。
 鼻を刺すペトリコールが、少しばかり郷愁を感じさせるそんな朝だ。
 

「おはようございます」


 彼女はいつも通りに出勤し、いつも通りに仕事を始めた。
 自席につこうとする後ろ姿は背筋が伸びていて、ショートカットの髪がリズムよく揺れる。彼女の生真面目さが、そういった所作にさえ顕れている。
 
 彼女と出会ったのは、この春のことだ。年度が変わりの折にお互い転勤となり、挨拶の場で初めて顔を合わせた。その時の印象はどうだったろうか。歳の割には、落ち着いているなといった程度の印象だったように思う。
 
 その頃の私といえば、何も知らない人から見れば昇進したように映るかもしれないが、望んでいた職務から離れてしまい、仕事への熱意をどこに注いで良いか分からない状態がしばらく続いた。こうして書き綴っている今さえ、その何ともいえないもどかしさは、心のどこかに引っかかっている。
 
 そんな折にも、彼女は与えられた以上の仕事を粛々とこなしていた。「社会に出た人間として、職務を全うするのは当然のこと」と、言葉を介せずとも横顔がそう語っていた。それを見ると、私の猫よりも猫らしくなった背中がすうっと伸びていくような気さえした。同じく環境が変わった仲間として、彼女の存在は大きかったのだ。
 
 

 それから、数か月した頃だ。
彼女の顔色が目に見えて悪くなってきた。目元にはクマができ、元々細い輪郭が、さらにて朧げになっているようにさえ見えた。聞けばあまりに眠れずに、食事が喉を通らない状態が1週間も続いたようで、この期間で体重が4kgも落ちてしまったらしい。
 

 ただでさえ、若くして専門的な仕事を抱えることの多い立ち位置にいた彼女は、人知れず歯を食いしばり、気を張り続けていた。飄々と仕事をこなしているように見えていたとしても、壁もなくただただ邁進できるはずもなかったのだ。それに気づかずに、直属の上司達は彼女の責任を問うように「前任者は……」と前置いた台詞を何度、口にしていただろうか。そういった、無数の心無い言葉の棘がいつのまにか彼女を蝕んでいた。
 
 
 「もうこのまま、無くなってしまいたいとさえ思いました」
 いつだったか、たまりかねた彼女の口から零れたその言葉は、静かに私の鼓膜を撫でて心緒を大きく揺らした。
 

 どうして、熱意のある若い芽がこのような窮地に追いやられないといけなかったのだろうか。部下の教育よりも保身に熱心な者の発言効力が高いのは、如何なものだろうか。本来、上司とは部下を護ることも仕事の一部のはずだ。そういった咀嚼しようがない沸々とした怒りが腹の隅に今もなお居座っている。
 
 
 ほどなくして、彼女は今の職場を去ることを決めた。
 

 もしかしたら、私がもっと早くに異変に気付けていれば結果は違っていたのかもしれない。


 もしかしたら、私が最初からフォローに回ることができていたならそんなに思い詰めずにすんだのかもしれない。


 もしかしたら……
 

 私に大した力があるわけではないのだけれど、それでももう幾何かの能力があればと口惜しい。
 

 彼女の誕生花の一つに、ローズマリーがある。ローズマリーが花を咲かせるのは、もう少し先の季節。香草や薬草としても有名だが、ヨーロッパでは神秘的な力を宿す花として伝わっているらしい。花言葉は、「静かな力強さ」だそうだ。芯を持って、一人で戦っていた彼女のようだと思った。
 
 暫くは休養するとのことだったが、どこかで復帰をしたとしても
私はもう近くで、彼女の活躍する姿をみることは適わないだろう。


 それでも、背筋が伸びた猫は仲間としてエールを送り続けようと思う。
 

 夏を過ぎ、秋の風が心地良さとローズマリーの香りを連れてきますように。
 



~ 藍に愛を込めて ~

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