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片翅の蝶は、泥の中で息をする

 今や当たり前になったSNSを一昔の人間が知るとすれば、
一体どのように感じたのだろうか。そんな破廉恥な、と否定したのだろうか。
 私自身、どこの誰かも分からない、貌も聲も知らない人々に自分の脳内から零れ落ちる文章を披露する。それは、初恋の人に宛てた恋文を誰かに覗き見られたような心地がして、些か気恥ずかしい気もする。

 それでも、私にとってこうして書くことは自分が此処にあることを証明するための手段の一つで、唯一、自分を視認できる方法だ。
 文章自体が拙くても、それを手放すことはどうもできないらしい。

 今から数年前に、生き方について考える契機をくれた人との出会いがあった。その人が紡いでいく文章は、背筋が伸びて凛とした彼女らしいもので、
私も言葉として、そこに並んでしまいたいと思うほど美しかった。

 私が文章を書くもう一つの理由は、私の言葉選びの中に彼女自身の存在を確かめるためなのかもしれない。

 「言葉はその人の生活圏を出ることはない」
 かつて、そんなことを言っていた友人がいた。それは出会った人や体験した出来事。それに、その時に見た景色に湧きあがった感情。そういったものが、それが文章に滲み出るということらしい。
 
 もし、そうであるなら私が書いた文章の中で、彼女は生きているはずだ。

 彼女が読めば、揃いの蝶の翅のネックレスを揺らしながら、
「あの頃と随分と書き方が変わったね」と笑われるかもしれない。

 それでも、私には片割れと互いを呼び合った人が居た。
そのことをこの先も、忘れることがないように今日も私は文章を書こうと思う。




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