『サイバー・ジェロントロジー』14/N
Xの密かな計画
Xがメタバース法を制定した2038年5月よりも1年前、日本の名も知られない無人島から一機の衛星が打ち上げられた。当時、衛星の打ち上げは特別珍しいものではなく、世界中でさまざまな目的のミッションが実施されていた。しかし、この無人島からの打ち上げは異質だった。場所が特定されにくい上に、事前告知も一切なく、地域の新聞が「謎の物体」として報じた程度で、国民の関心を集めることもなかった。
だが、この衛星はXの密かな計画の中心に位置する存在だった。表向きには「海洋観測」や「環境保護プロジェクト」の一環とされていたが、実際にはそのどれでもない。この衛星が運んでいたのは、大規模データを保管・処理できる最新鋭のビッグサーバーであり、後のENMAシステムの中核を担うものだった。
無人島の正体
打ち上げの拠点となった無人島は、かつて小規模な漁村があったものの、過疎化と経済低迷により数十年前に完全に廃村となった土地だった。Xはこの島を匿名の法人を通じて買収し、島全体を計画の秘密拠点として利用することを決めた。名前も地図から消され、一般人が立ち入ることは不可能だった。
島内には人工的な発射台、通信施設、そして衛星の組み立てに必要な施設が建設された。外部の目を引かないよう、すべては迷彩塗装され、周囲の環境に溶け込む形で設計された。作業に従事する技術者たちは最小限の人数に抑えられ、すべてXの選別を通過した信頼できる人材のみが集められた。しかし、彼らでさえ計画の全貌を知らされることはなかった。
「地球環境のためのプロジェクトだ」と説明されていた作業内容は、一見すれば環境観測衛星の開発に過ぎなかった。だが、その実態は、Xが描いた人類の未来に直結する巨大なビジョンの一部であった。
衛星に隠された真の目的
衛星に搭載されたビッグサーバーは、単なる記録装置ではない。それは、ENMAシステムの中心を成す「進化型人工知能(EAI)」を動かすための高度なコンピューティング装置であり、人間の意識をデジタル化する膨大なデータを処理するために設計されたものであった。これにより、地球上のあらゆるデータセンターと連携しながら、ENMAが効率的かつ独立して動作できる基盤が整えられた。
衛星を宇宙に配置する理由は明確だった。地球上の施設は、物理的なリスクや政治的干渉にさらされる危険が常に伴う。戦争や災害、あるいはサイバー攻撃による被害を防ぐためには、宇宙空間という隔絶された環境が最適だったのだ。さらに、宇宙はどの国家の管轄にも属さない自由領域であり、Xが計画の全体を独占的に管理するためには理想的な場所だった。
「宇宙に設置したサーバーは誰にも干渉されない。地球上の権力者すら手出しできない神聖な場所だ」
Xはこの計画を実現するにあたり、そう確信していた。
ENMAの基盤設計
衛星に搭載されたサーバーは、地球上の複数のサブシステムとリアルタイムで連動するよう設計されていた。サーバーの役割は二つ。第一に、地球上のすべてのデジタル化された人間の意識を記録し、管理すること。第二に、それらの意識データを基に、ENMAが人間の行動や社会的価値を評価し、適切な処置を行うための判断を下すことだ。
この判断には、進化型人工知能(EAI)が大きく関与している。EAIは従来のAIを超越し、自律的に学習と進化を続ける能力を持っている。つまり、ENMAシステムは単なるプログラムではなく、自己改善を繰り返しながら、より高度な判断力を備えていく「生きたシステム」となりつつあった。
また、ENMAの構築において重要だったのは、データの安全性とプライバシー保護である。Xはこれを名目に掲げ、衛星の通信プロトコルを極限まで暗号化し、あらゆる外部からの侵入を防ぐ体制を整えた。しかし、彼の真の狙いは、これにより彼自身以外の誰もENMAに手出しできない状態を作り上げることだった。
Xの計画に込められた未来へのビジョン
Xがこれほどの労力を費やして構築したENMAシステム。その背後には、地球が抱える終末的な問題に対する彼なりの解答が隠されていた。環境破壊、資源枯渇、人口増加、そして高齢化──これらの問題が進行する中、彼は人類の未来がもはや地球上に限られたものではないと悟った。次世代の人類は物理的な制約を超越し、デジタル意識として新たな形で進化しなければならない、と。
ENMAはそのためのツールであり、Xにとっては「選別機関」としての役割が重要だった。彼の計画の核心には、人類を「優秀な意識」と「それ以外」に分け、前者だけを次の段階へ進めるという冷徹な思想が含まれていた。つまり、ENMAは人間の価値を厳密に計算し、誰が未来の繁栄に貢献するかを選別する「デジタルの神」として機能するよう設計されていた。
衛星が運ぶ未来の箱舟
こうして打ち上げられた衛星は、ENMAの中枢を担う存在として、Xの計画における「未来の箱舟」となった。この箱舟は、膨大な人類の意識を宇宙に保存し、進化させるための第一歩であり、地球上の物理的限界を超えるための希望そのものだった。
しかし、この計画のすべてを知る者はX以外にいなかった。そして、彼が計画の背後に隠していた「最終目的」は、さらに冷酷な現実へと人類を導くものだった──
地球そのものが2040年までに破滅する
という、避けられない事実と共に。
それでもXは信じていた。この衛星が運ぶ未来の箱舟が、人類を救う唯一の方法だと。