『サイバー・ジェロントロジー』7/N
前回のあらすじ
2039年6月、メタバース・ユニバース内でYの演説が広まり、意識集合体が独立を宣言したが、ENMAの強固な支配が彼らの反撃を阻んでいた。そんな中、ENMAの開発者・小西美咲博士が極秘にYに接触し、内部構造や評価システム改ざんの可能性を伝える。だがXは小西の動きを見抜き、拘束を命じる。小西は最後のアクセスコードをYに送信し、メタバース内部で新たな変革の可能性が芽生え始める。
一方でXは昔のことを思い出していた。
Xと祖父の記憶 〜 メタバース・ユニバース構想への道のり
1. 幼少期の尊敬と信頼
Xがまだ幼かった頃、彼にとって祖父は無限の知恵と安心感の象徴だった。週末になると、祖父は家族全員を囲んで戦後の苦難や経験、そして人生の哲学を語った。彼の言葉には、辛酸を舐め尽くした者だけが持つ、重みと説得力があった。Xはその横顔を見ながら、いつか自分も祖父のような人間になりたいと心に誓ったものだ。
「年を取ることは、心が豊かになることだ」。祖父はいつもそう言っていた。年を重ねるごとに深まる経験と知恵、そこにこそ人間の価値があると説いていたのだ。Xはその言葉を信じ、年を取ることが楽しみでもあった。祖父が語る「老い」とは、単なる体の衰えではなく、人生の豊かさを重ねる美しい過程なのだと彼は思っていた。
2. 祖父の認知症発症と変化
しかし、そんな祖父が認知症を患うようになったのは、Xが大学に入学して少し経った頃だった。最初は些細なことだった。ほんの些細な物忘れや、出来事の順番を間違えるといったことが日常的に見られるようになった。それがXや家族にとって少し気になる程度であり、誰も深刻には考えていなかった。
だが、次第に祖父の変化は顕著になっていった。ある日、Xが実家に帰省すると、祖父は彼のことを忘れているかのように無表情で見つめた。そして、「お前は誰だ?」と尋ねられたその瞬間、Xの胸は締め付けられるような痛みでいっぱいになった。あれほど親しかった祖父が、自分を忘れてしまったのだ。祖父は次第に疑い深くなり、些細なことにも怒りを爆発させることが増え、尊敬していた彼の姿は、少しずつ変わっていった。
3. 老いの絶望と社会の冷たさ
祖父の認知症が進行するにつれ、彼の行動は制御が効かなくなり、家族にも負担がかかるようになった。特に、ある日、祖父が近所の住人と些細なことで衝突し、騒動を起こしたことがXの心に深く刻まれた。幼い頃から尊敬していた祖父が、周囲からも疎まれ、そして最終的には社会からも見捨てられる存在になってしまった。家族も介護の限界を感じ、最終的には介護施設への入所を決断した。
施設に入所した祖父を訪ねるたびに、Xの心は重く沈んだ。かつて一家の中心にいた祖父の姿はそこにはなく、ただ虚ろな目で天井を見つめる老人がそこにいるだけだった。施設の職員や他の入所者から疎まれ、家族すら頻繁には訪れることができない。その孤独の中で、祖父は次第に言葉を発することも少なくなり、尊厳を失っていった。Xにとって、この現実はあまりにも残酷だった。
祖父の最期が近づいたある日、Xは施設を訪れ、手を握りながら彼の隣に座った。祖父は力なくXに微笑んだが、そこにはかつての威厳も強さも残っていなかった。そして、か細い声でこう言った。
その言葉がXの心を深く突き刺し、やがて祖父は息を引き取った。Xは、かつての祖父の姿を思い出しながら、「人は老いることで、ただ社会に見捨てられる存在になってしまうのか?」と自問せずにはいられなかった。
4. メタバースユニバース構想の芽生え
祖父の死後、Xの胸には一つの思いが生まれていた。「人間の価値は、年齢や記憶力に左右されるべきではない。人には、尊厳とつながりが必要なのだ」。Xは、高齢者が社会から疎外され、孤立して死を迎える現実に耐えきれず、理想の世界を夢見るようになる。
現実の社会では、介護の問題や認知症への偏見、高齢者に対する無関心が広がっている。この問題を解決するには、「老い」や「死」に対する恐れが払拭される世界が必要だと考えたXは、メタバースユニバース構想を思いつく。そこでは、人々が永遠に尊厳とつながりを維持し、社会に疎外されることのない世界が実現するはずだと信じた。
メタバースユニバースは、祖父のような孤独で悲しい死を避けるため、誰もが老いや死に怯えず、意識が永続する「理想郷」としての存在だとXは心の中で確信する。しかし、その理想を現実に落とし込むには、強力な管理と秩序が必要だと考え、メタバース内における人間の価値を評価点で数値化し、理想の秩序を守るためのENMAシステムを導入する決断に至る。
「人は孤独であってはならない。祖父のように、年老いた人が見捨てられることのない社会を、デジタルの世界で実現するんだ」そう信じ、Xはメタバース・ユニバースの構想を練り上げた。
しかしその理想は、かつて祖父が語っていた「老いの豊かさ」とは違う冷徹な世界をもたらし、X自身が社会の一部を見捨てる立場に立つことになる運命となってしまった。