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渡辺雄二vsマルコス・ゲバラ 1993年8月30日 「後楽園ホールのベランダより~追憶の90年代ボクシング Vol.14」
90年代国内屈指の人気ボクサー、渡辺雄二が再起第二戦に挑む。
基本的に、90年代に後楽園ホールで生観戦した試合の感想を綴るこのシリーズ。今回はしかし、ホールを初めて飛び出してみたい。
90年代前半の日本リングにおける屈指の人気者、渡辺雄二の再起第二戦は、後楽園ホールではおさまらず、前年世界戦を行った東京体育館での開催となった。
92年11月、渡辺はWBA世界ジュニア・ライト級王者、ヘナロ・エルナンデスに挑むも6回TKO負け、その後93年4月に再起を果たす。
再起二戦目の相手のマルコス・ゲバラ(ベネズエラ)は世界ランカー(WBA6位)。危険な相手だが、これに勝てばすぐにも二度目の世界戦に向かえるだろう。この時点での渡辺のランクはWBA7位。
不思議だったのは、人気ボクサーの試合にもかかわらず、この興行がノーテレビだったことだ。
大会場を埋めるための措置なのか、理由は僕には皆目見当がつかない。わかっているのは、とにかくチケットを入手して現場に足を運ばねばならないということだ。
前座には、三谷大和のデビュー戦も。
さて当日、第一試合からしっかり観るために、僕は半日の有給休暇を取得。万全の体勢で初めての会場に乗り込んだ。1993年は歴史的な冷夏だったが、この日は晴天でかなり蒸し暑かったことを覚えている。
入ってみると、東京体育館はさすがに広く、後楽園ホールとのスケールの違いに圧倒された。この日の観客数は主催者発表ながら驚きの8000人。ノーテレビとはいえ世界戦でもない試合にこれだけの人数が集まったのだから、やはり当時の渡辺雄二の人気はすさまじい。
僕のチケットは最安値の3000円席。会場には(たしか)スクリーンなどもなく、ボクシング観戦の環境としては、今と比較すればなかなかハードなものがあったと記憶する。しかし、当時は「そんなもんだろう」くらいに思っていた。
ノーテレビ興行だけに、動画サイトにもこの試合の映像はまったく出ていない(あったら教えてください)。
というわけで、今回はかすかに残る僕の記憶とボクマガの記事で、なんとかこの日の興行を再構成してみたい。
この日はKSD杯争奪賞金トーナメント(通称B級トーナメント)が三試合、続いて、桑田弘(進光)と堀内稔(斎田)による日本ジュニア・ウェルター級タイトルマッチ、そして、セミファイナルとして期待の新人、三谷大和のデビュー戦が組まれている。
三谷のデビュー戦に関しては、ボクマガでもモノクロながら一ページを割いていた。日本タイトルマッチを差し置いてのセミへの抜擢など、大きな期待をうかがわせる。
…のだろうが、30年の時を経て、記憶には残念ながらまったく残っていない。
迷いがみられた渡辺のボクシング。
渡辺の試合に関しても同様で、「一方的だったな~、歯が立たなかったな~」くらいの印象がかろうじて残っているだけだ。
それでもボクマガ93年10月号の記事を読むうちに、少しづつ記憶が蘇ってきた。
「世界戦でもそうだったが、この日も渡辺のスタートは悪くなかった」
ボクマガの戦評でもそう書かれていたように、渡辺はジャブを多用し、パワー一辺倒のボクシングからの脱却をアピールするような立ち上がりをみせた。
エルナンデスの技巧の前に完敗を喫して9か月。パワー頼みのボクシングでは世界に届かないことを痛感した上でのモデルチェンジだったはずだが…。
しかし、それも2Rに入りゲバラが様子見を終えて多少攻撃的になると、途端に破綻する。
渡辺に比すれば、ゲバラのパンチは迫力では劣るが、コンパクトかつノーモーション、それが面白いように渡辺の顔面に吸い込まれていく。
世界戦までは圧倒的な攻撃力に隠れて、ディフェンス面で試される場面の少なかった渡辺。防御面も課題として練習を積んできたのだろうが、9か月の期間でその穴をふさぐことはできなかったようだ。
3R目に入ると、早くも試合は一方的になる。初回にみせていたジャブを軸にしたボクシングも、この頃にはまた力に頼ったボクシングに戻ってしまっていた。そして、振りの大きい渡辺のパンチの打ち終わりに、ゲバラは難なくコンパクトなコンビネーションをまとめてくる。
まともにパンチを浴び力なく後退する渡辺に、早くもダウンが宣告された。
後方の席でその様子を眺めながら、僕は「9か月間で進歩しているどころか、前より弱くなってるんじゃないか?」とさえ思っていた。
技術的な向上が見られないだけでなく、パワーも以前ほどのものが感じられない。
たしかにゲバラは世界ランカーとしての力は十二分に持っていそうではあるけれど、それでも王者エルナンデスと比べれば、力量的に一、二段劣るのは間違いないように思われた。
その相手に、こうも一方的にやられるとは…。
その後もゲバラの攻勢は続き、7Rでついにストップされたというのが僕の記憶だが、ボクマガの戦評を読むと渡辺にも勝機がまったくなかったわけではないようだ。
6R、渡辺がボディに連打を集めると、それまで高く掲げていたゲバラのガードが下がってきたらしい。たぶん効いていたのだろう。世界戦までの勢いに乗っていた渡辺ならば、ここで迷いなく攻めてパワーで押し切ったのでは、というのが斎田ジム会長の試合後の感想だ。
しかし、この試合以降の渡辺の戦いぶりまで含めて考えれば、渡辺が攻勢に出られなかったのは、迷いがあったというより、単純にゲバラとの力量差があったためだろう。
渡辺のそれまでの「迷いのない思い切りのよい攻撃」は、(赤城戦をのぞけば)自分より格下の力量に劣る相手に発揮されていたものだ。
結果論ではあるけれど、出世試合となった赤城戦のあと、足早に世界戦略に乗り出すのではなく、もう少しじっくり力をためこむ期間を作っていればとも思うが…。(しかしそうした場合、世界戦にたどりつくまでのどこかの時点でつまずいていた可能性もあるから難しい)
91、2年の渡辺の輝きは目が眩むものがあったのは確かだが、93年時点では周囲の期待と実際の渡辺の実力との間には、かなりの開きができてしまっていたように感じる。
結局、渡辺はその後一年以上、試合から遠ざかる。
一方、この日見事なボクシングをみせて世界ランカーの貫録をみせたゲバラだが、わずか三年後の96年に連敗を喫して引退している(BoxRec調べ)。
やはり上には上がある世界だ。世界の頂きというのは、なんと果てしない彼方にある場所なんだろうか。
渡辺は94年に復帰。翌95年にフェザー級に落として強豪、クリス・サギドからOPBFタイトルを奪う。リターンマッチも難なく退けてみせた。
この二戦は、渡辺のベストバウトともいえる出来で、ようやく持前のパワーに技術的な成熟が追い付いてきたかのようにみえた。
この辺りで世界戦ができていればよかったのだが、、、。
しかし、97年にようやく訪れた二度目の世界に登場した渡辺は、なぜかまったくぴりっとしなかった。肉体的にもしぼんでみえ、パワー、スピードもいまひとつ感じられず、ウィルフレド・バスケスの前にいいところなく5RTKO負けに終わる。
95年のサギド戦時の渡辺ならば、もう少し健闘したはずだ。体にどこか不調があったのか。あの試合の覇気のない戦いぶりは、今も不思議に思う。
その後、2000年まで渡辺は現役を続けるが、そのキャリアは実質的にバスケス戦でなかばピリオドが打たれていたように思う。
「ゲバラ」にまつわる余談。
ここからは完全に余談というか、僕の妄想である。
連載30年を超えるボクシング漫画の金字塔『はじめの一歩』。現在(24年2月)時点では、主人公の一歩は現役を退き、トレーナーとして活動している(たぶん、展開からしてそのうちに現役に復帰するのだろうけど)。
現時点で、一歩の最後の試合の相手の名前は、アントニオ・ゲバラだ。
一歩にとっては、前戦で世界ランカーに敗戦した後の復帰戦。
その相手として「ゲバラ」が登場した時、渡辺vsゲバラが脳裏をよぎった。
「もしかして森川先生は、一歩を負けさせるつもりなのか?」と思いつつ、その後の連載を読み進めたが、果たして一歩は彼の前に4ラウンドでKO負け。引退を決意する。
試合展開自体や選手のキャラが似てはいるわけではない。一歩vsゲバラはシーソーゲームだったし、こちらのゲバラは19歳のフィリピン人だった。
しかし、主人公のキャリアに重大な黒星をなすりつける役割は似ている(と言えなくもない)。
もしも万が一、森川先生に実際にお会いできるようなことがあるなら(たぶんないでしょうが)、命名の意図を聞いてみたい気もするのだけれど。