山口尚。哲学者の幾人かが自由意志や責任や主体の存在を否定し切らない理由のひとつについて――小坂井敏晶の『責任という虚構』(ちくま学芸文庫、2020年)のひとつの指摘への手短な批判  


(山口尚さんは、2024年1月いっぱいで、noteの記事を全部消してしまいました。多くの人に読まれて、一区切りがついたからそうです。そのさい、山口尚さんは、記事を保存したい人は、保存しておいてくださいと書いていたのですが、私は、これしか、保存してませんでした。コメント欄全文も付記しています。)

山口尚
2021年3月24日 17:22

小坂井敏晶の『責任という虚構』(ちくま学芸文庫、2020年)は、規範の存在を前提した探求姿勢である「規範論」と規範の存在を前提せず純粋の社会現象を記述する態度とを分け、後者の態度のもとで《自由意志や責任や主体という観念は社会的に生み出される虚構だ》と主張する。彼にとってこれは記述的言明である――それゆえ彼は《自由意志や責任や主体はじっさいには存在しない》と考える。この主張に何かしらの真理性が含まれることは否定できない。

本ノートは同書の文庫版補考を取り上げる。なぜならそこでは哲学者批判――すなわち《哲学者たちは規範論に囚われておりそのために自由意志や責任や主体の存在を否定し切れない》という哲学者批判――が行なわれるからである。小坂井の批判は重要な指摘を含むが、それでも一方的に正しいわけではない。《なぜ一方的に正しいわけではないと言えるのか》を説明するのが本ノートの目標である。

小坂井と哲学者たちの幾人かは、途中までは意見を一致させる。じっさい両者は次の理路を共有する。すなわち、人間は物質から成り因果の網目の中にいる、それゆえ人間の行動は物質の因果的作用の結果であり、そこに自由意志は見出されない、と。自由意志は因果連関の内部で捉えられない。とりわけ物質の因果の観点に立つ限り、自由意志や責任や主体の存在は否定されざるをえない。

だが次のステップで両者は袂を分かつ。小坂井は以上の理路から《自由意志などは存在しない》と結論するが、哲学者たちの幾人かは因果連関とは別の場所に自由意志の存在を見出そうとする――例えば《人間的コミュニケーションのうちに自由意志や責任や主体は居場所をもつのだ》などと主張されたりする。

小坂井は、こうした幾人かの哲学者たちの考えを検討したうえで、次のように言う。

表現の違いはあれど、因果律で意志と責任を捉えられない事実は、以上検討した論者たちも了解する。ところが、その上で意志の意味を再解釈し、自由意志が存在すると彼らは結論づける。本書は逆に自由意志の不可能性を説く。その違いはどこから来るのか。本書は規範論を退け、終始一貫して記述的態度を採る。対して哲学のアプローチは規範論を練り、自由の再定義を図る。これが我々の分岐点だ。(408頁)

ここで小坂井は、哲学者たちは規範を前提した観点で自由意志を考察しいわゆる「べき論」を提示する、と指摘する。哲学者によると、例えば犯罪者たちは罰されるべきであるので、そこに自由意志や責任が見出されねばならない(それゆえ哲学者たちの幾人かは因果連関とは別のどこかしらに自由意志・責任・主体を見出そうとする)。このように哲学者は「べき」から逆算して自由意志の存在などを肯定する。とはいえ規範論から離れればどうなるか。こうした記述的な視点においては端的に《自由意志は無い》と言える(その理由として小坂井は神経科学や社会心理学の成果を挙げる)。自由意志や責任への哲学者たちの拘りは規範論に囚われていることの結果である。

哲学者たちは規範論に囚われている――これが小坂井の指摘であるが、彼はこの論点をさらに一歩踏み込んで分析する。小坂井によれば、哲学者たちは神のいない世界で規範的秩序という普遍的なものを正当化しようとしており、こうした不条理な目的のために人間の自由意志を要請する。曰く、

神がいない世界で秩序をどう根拠付けるか。普遍を求める哲学者にこそ、この問いは深刻になる。[…]
神のいない世界で普遍を求める試みには原理的な無理がある。だから神が化けた個人主体にしがみつき、決定法則と自由意志の両立論のような苦しい言い訳をひねり出す。規範論を旨とする法哲学や政治哲学にとって主体の否定は、神の存在を神学が否認するに等しい暴挙なのだろう。(429頁)

ここでは、哲学者たちは規範を根拠づけるために人間を或る種の「神」にする、と指摘されている。人間が行為主体であり、自由意志で行動を選択し、その責任を負うのであれば、例えば《犯罪者は罰されるべし》という規範はその根拠を維持できるだろう。とはいえ小坂井によれば「脳科学・認知科学・社会学・社会心理学において主体はすでに舞台を降りている」(429頁)。規範論を離れて世界の真実相を記述すれば次のように言わざるをえない。すなわち、自由意志や責任は存在せず、それらは虚構だ、と。

小坂井は相当に真理を含む事柄を述べていると思うが、問題点があるとすればそれは《自分のやっていることに無頓着だ》という点である。以下、この点の説明だ。

小坂井は本を公刊している。そして本を公刊している以上、例えばもし出版社が無断で彼の文章を改変したとすれば、小坂井は《出版社は不正な行為に責任を負っており何かしらの罰を受けるべきだ》と考えねばならない(これが〈本を公刊する〉という行為の意味の一部である)。あるいは彼は自分の書いたことに責任を負う(これも〈本を公刊する〉という行為の意味の一部だ)。さらに言えば、小坂井の本を公刊するという活動は、自由意志や主体性を前提する無数の行為を含んでいる(例えば、どこまでが自分が著者として決定できることで、どこからが出版社の仕事なのかを分けたりせねばならなかった)。一般に自由意志・責任・主体は行為の前提だと言える。そして、この前提なしに、〈本を公刊する〉という行為をおこなうことはできない。

同じの点をやや別の角度から敷衍しよう。

小坂井の哲学者批判は規範の存在を前提している(それゆえそれ自体で一種の規範論である)。小坂井がやっていることのひとつは、実質的に、みんなに《自由意志は無いと考えるべきだ》と「べき」を押しつけることである。小坂井がこのように言っても哲学者たちは納得しないので、彼は文庫版に補考を付け加えてふたたび「べき」を押しつける。他方で「べき」は〈それを行なうことも行なわないこともできる〉という自由意志を前提する(自由な選択が無い世界では「べき」という語は無意味であろう)。このように他者の間違いを指摘して「べき」を押しつけるという批判は、それがじっさいに批判であるためには、自由意志の存在を要求する。

加えて小坂井は彼の《自由意志は無いと考えるべきだ》という指摘に従わない哲学者たちを「間違っている」と責める。彼のやっていることは、実質的に、責めであり非難である。他方で責めや非難は責任を前提する。――このように、彼のやっていることがそれとしての意味をもつためには、自由意志・責任・主体などの存在が(虚構でない形で)要求されるのである。

まとめよう。

哲学者の幾人かは《自分は、何かを語ったり書いたりするときに、その前提として自由意志や責任や主体の存在を認めてしまっている》という事実を無視することができない。あるいは哲学者の幾人かは、自由意志・責任・主体を虚構と見なしながらも従来通り著述家として本を公刊したりひとの意見を批判したりする、ということに違和感を抱く――「これは本当のところは〈虚構と見なしていない〉ということを意味するのではないか?」と。要するに、自分のやってしまっていることに無頓着になれない(あるいは自分を棚上げにすることができない)、ということだ。それゆえ彼女らや彼らは、《自由意志や責任や主体の存在はその根拠が不確実なものだ》という点を認めつつも、それらを否定し切ったりはしないのである。

いよかん
2023年12月8日 06:33
実際には自由意志はないとは、他者を批判することも含めて、本当にすべての行為に自由意志がないということです。自由意志はあると思うから、自由意志はあるというのは論理の飛躍ではないですか。

山口さんは、実際には行為者はいない(責任はない)けれど、社会上は、みな個人的行為者であり(責任がある)、人間は、そのような虚構によって生きているということが、わかっていないようです。
実際のありのままの現実としては、自由意志がないのですが、社会上、虚構、作り事としては、自由意志があり、人間の世界は、二重構造です。

人間の精神の構造上、操作上の要素としては、「自分(行為者)」という観念がありますが、それと、行為者の実在は、別のことです。

自由意志がなくても、コンビニに肉まんを買いに行けます(見かけの自由意志があるため)。
自由意志がないことで、問題は起こりません。社会に対しての逸脱行為についての刑罰の在り方は、議論すればいいだけです。

山口尚
2023年12月8日 10:17
いよかんさんが私のことを「間違っている」と責めるさい、いよかんさんは《山口尚は自分で選んで主張している》と認めています。なぜなら〈自由意志で選択されたのではなく、たんに自然的に生じるにすぎないもの〉について責めるのはナンセンスですから。

けっきょく、いよかんさんの投稿は《一切はただ生じるだけでなく、ひとが選んで行為することがある》ということを受け入れたうえでなされており、そうである以上、私への批判は空振りします。

いよかん
2023年12月8日 15:50
責めているのではなく、批判しているだけです。山口さんの言われている通り、自由意志はない、ひいては、行為者はいないということは、選択の自由は存在せず、誰にも何の責任もないということであり、誰を責めることもできません。

小坂井敏晶さんも、論じているだけで、誰かを責めているわけではないと思います。自由意志を信じないなら、批判はできても、誰も責めることはできません。
小坂井さんの言葉で言えば、個人の自由意志の認識の有無は、遺伝子、環境からの条件付け、偶然といった外因に基づくのであり、内因によるものではないのですから、自由意志を信じるか、自由意志はないと思うかにも、自由意志はないことになります。つまり、自由意志の認識の有無に個人の功罪や責任はありません。

仮定として、私が山口さんを責めたとしても、その場合、私は自由意志と選択の自由を信じているわけですが、私のその認識自体が、そもそも自由意志ではないことになります。

山口尚
2023年12月8日 16:32
ひとがやっていることを批判するさいにも、《批判の対象者が問題の事柄を選んで行なっている》ということは前提されます。なぜなら〈人が行なったわけでなくただ生じること〉を批判するのはナンセンスですから。

思いつきで反論するのではなく、よく考えてから反論しましょう。

いよかん
2023年12月10日 02:16
人間の思考形式が主体を想定しているというだけでは、事実として、主体が存在することの証明になりません。「自分」という行為者感覚があることと、事実として行為者(自分)が存在することは、イコールではありません。それは、論理の飛躍です。そのため、行為者感覚があることを理由に主体の存在を論理展開のあらかじめの前提にすることはできません。

いよかん
2023年12月10日 02:16
ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)というインドの国営銀行元頭取の非二元論の覚者も小坂井敏晶さんと似た考えです。
「人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように生きなければならないということです。人間は虚構によって生きています。たとえば人間は、太陽が静止していて、運動しているのは地球だということを知っていますが、それにもかかわらず、日常生活では太陽が昇っては沈むという虚構を受け入れています。
ですからその理解は、これは幻想で、人は自由意志をもっていないというものですが、しかし人生では、あなたはまるで自由意志があるかのように行動しなければならないのです。」

自由意志はないことを理解することは、メリットもあります。
プライド、罪悪感、責任、挫折感、恥、敵意、憎しみ、嫉妬、などの心の重荷となる感情は、自由意志、ひいては行為者感覚に起因しており、自由意志や行為者が存在しないことを深く理解できれば、これらの感情が軽減、解消され、人生がシンプルになり、心の平和につながります。

山口尚
2023年12月10日 11:00
あなたは自分のやっていることを棚にあげており、たいへん不誠実な対応をしていると言えます。以下、その点を説明します。

じつに、あなたは私の言っていることを「間違いだ」と指摘し私に間違いを認めさせようとしていますが、これは《この批判の対象者が問題の事柄を選んで行なっている》ということを前提されます。なぜなら、すでに繰り返し述べているように、〈人が行なったわけでなくただ生じること〉を批判するのはナンセンスですから。

あなたは口先では《ひとが何かを行なうことはなく、一切はただ生じるだけだ》という考えに与しているように振る舞いながら、じっさいに行為する次元では《ひとが何かを行なうことはある》ということを受け入れ、私の主張への私の責任の存在を認め、私を「間違っている」と責めています。ここには無視できない〈自分の言っていることへの裏切り〉が見出されます。

(続く)

山口尚
2023年12月10日 11:03
あなたが本当に《ひとが何かを行なうことはなく、一切はただ生じるだけだ》という考えを生きたいのであれば、あなたがすべきことは自分の矛盾をできるだけ少なくすることでしょう。例えば、〈互いに主張の責任を問い合う可能性〉が前提されるコミュニケーションの空間に参与している時点で、あなたは《ひとが何かを行なうことはなく、一切はただ生じるだけだ》という考えを裏切っていることになります。そして、あなたは自らが口先で述べる考えを行動において裏切っており、その点であなたは不誠実な生き方をしていると言わざるをえません。

あなたは私へさんざん問いかけてきたのだから、いまや私のほうにもあなたへ問いかける権利があるでしょう。それゆえあなたには次を問いたい。

あなたは、口先だけでなく生き方のレベルで、《ひとが何かを行なうことはなく、一切はただ生じるだけだ》という考えを生きていますか。この考えに真に誠実になるとき、どんな生き方をせねばならないかを反省したことがありますか。

自分には自由意志がないから、《ひとは自由だ》と信じ続けることは止められない――などの不誠実な答えは望んでいません。(了)

いよかん
2023年12月10日 12:41
〈人が行なったわけでなくただ生じること〉を批判するのはナンセンス。これは、変なことを言っておられると思います。それでは、何も言えなくなってしまいます。

自由意志はないというなら、どんな生き方をせねばならないかという考えは、「べき」論であり、自由意志があること前提の考え方です。自由意志がないなら、生き方をコントロールできる個人的行為者はいません。つまり、人間の生は、ただ起こるだけです。

しかし、山口さんの問いに答えるなら、私には、自由意志や行為者が存在しないということの完全な理解はありません。

山口尚
2023年12月10日 13:06
二点分けて応答します。まずは一点目。

〈人が行なったわけでなくただ生じること〉を批判するのはナンセンス――これは何も変なことを言っていません。

例えば、私たちは台風が起こることそれ自体を批判したりせず、例えば〈行政が台風への十分な対策を行なっていない〉という不作為的行為を批判します。

批判がターゲットとするのはひとが何かを行なったことであり、〈たんに生じること〉は――それについて不正か否かが問題になりえない以上――それについて批判することもナンセンスになります。

じっさいあなた自身も、ただ生じることからひとが何かを行なうこと(今回は山口の行為)をより分けて、そのうえでその行為を批判しています。

私の積極的主張を批判する前に、こうした基本的な点を理解するよう努めたほうがよいと思います。(続く)

山口尚
2023年12月10日 13:08
第二点目。

あなたは「人間の生は、ただ起こるだけです」と言っている。すなわちあなたは行為しています(これはただ生じることではない)。さらに言えば、あなたはあなたが語っていることを私に読んでほしいと期待しているので、あなたは自らの行為を通じて私にたいして《あなたは語っている》という命題を肯定しています。

けっきょくあなたは自分のやっていることを棚にあげています。それゆえ、繰り返しになりますが、あなたは自分が口先で述べている《一切はただ生じるだけだ》という命題を行為によって裏切っており、その点で不誠実です。

私は次の単純な質問へあなたがどう答えるか関心があります。

このコメント欄において、あなたは何かを語っていますか。

この問いへ答えるさいには《答えることも行為だ》という点を自覚されるのがよいでしょう。(了)

いよかん
2023年12月10日 13:21
行為は、本当は出来事だと思います。あらゆることは、ただ起こるだけです。

質問することがなくなりました。答えていただき、ありがとうございました。

山口尚
2023年12月10日 13:50
あなたはこちらの質問に答えず、「あらゆることは、ただ起こることだけです」と語り、〈語る〉という(たんに生じることとは異なる)行為をおこなっています(この点であなたは、首尾一貫して、自分の言葉を自分の行為で裏切っています)。

あなたからのコメントへは私はそのつど対応したのですから、私からの質問へ正面から答えることを避ける、そして「質問することがなくなりました」とかいった自己都合で対話を離脱するというのはまったくフェアではありません。

あなたはひとの書いたものを批判する前に、〈できるだけ自己に誠実に語ろうとすること〉や〈フェアさを重視すること〉などの対話における基本的姿勢を身につけたほうがよいでしょう。

ハラタ
2023年12月10日 14:16
いくつか明確にしておきたいがあったので質問させていただきます。
山口さんによれば、神経科学的見地から自由意志を「虚構だ」とみなす者は、それゆえに、自己矛盾なしに(例えば自由意志を前提して規範を構築しようとする)他者を「責める」ことはできない。なぜなら、他者が行為を選択しているという事実を認めることになるから。これを踏まえると、首尾一貫した自由意志虚構論者の態度というものは、他者に対して一切の「責め」を行わないことになるのでしょうか。
気になるのは、どこからが「責め」になるのかということです。意識がほとんどないような生物でも、環境に機械的に応答することはできます。これと同じように、自由意志虚構論者も、自分に(因果的に)生じている事実(自由意志など存在しないという感覚)と、目の前の他者に生じている事実(どうやら彼は自由意志が実在すると思っているらしい)の不一致(これ自体は、単に異なる2つの事実というだけで、不思議なことではありません)に例えば不快を感じ、生理学的に生じる意識を帯びて、何か応答をすることがあると思うのですが、これは「責め」になるのでしょうか。

長文失礼致しました。

山口尚
2023年12月10日 14:39
ご質問、明確化のためにたいへん役立つものだと思います。まず《ハラタさんのご質問を私がどう受け取ったか》を述べ、そのうえで答えさせていただきます。

ご質問曰く、私(山口)は「首尾一貫した自由意志虚構論者の態度というものは、他者に対して一切の「責め」を行わないことになる」と主張している。だがここで言う「責め」は何か。例えば機械や単純な生物の反応も「責め」でありうるのか。

ご質問が私に帰する主張は、じっさい私が行なっている主張だと言ってよいと思います。ただし私であれば似た内容を、自由不在論(これはこの文脈では責任虚構論でもある)は自己矛盾のない仕方で採用するのが難しい、と表現するでしょう。とはいえこのあたりはさしあたりとりたてて強調すべき違いではありません。

さて問いは《ここでの「責め」は何か》でしたが、私はだいたい以下のように答えたい。(続く)

山口尚
2023年12月10日 14:41
〈責め〉は、正/不正の区別が招来するものです。――どういうことか。じっくり説明します。

まず私たちが何かを「不正」と見なすとしましょう。じつにこの時点で私たちは《ひとが何かをすること》の存在を認めていることになります(なぜなら、たんに生じることについては「不正かどうか」は問題にならず、ひとが何かをすることにかんしてのみ「不正」と批判することが意味をもつから)。そして――ここが肝心ですが――私たちが何かを「不正」と見なすとき、そこにはすでにして責め(の端緒)が含まれています。なぜなら、何かを「不正」と見なしつつそれにたいして私たちの側で明示的な制裁や攻撃・言語的批判・繊細で気づかれにくい態度変更(これらはすべて責めです)などが行なわれない場合、何かを「不正」と見なすことのポイントが失われるからです。この意味で〈不正〉の概念は〈責め〉の概念と連関しています。(続く)

山口尚
2023年12月10日 14:42
以上より《ここでの「責め」は何か》へのさしあたりの答えが得られます。

すなわち、責めは「正/不正」の区別のある空間で行なわれる、と。これは「責め」の定義ではありませんが、「責め」についての重要な特徴づけになっています。そしてここから、機械が因果的に運動するだけの空間および単純な生物が刺激に反応して生きる空間では〈正〉・〈不正〉の概念が力をもたないので、そこでは〈責め〉もない、という命題が導き出されます。

けっきょく《機械の運動や単純な生物の反応が〈責め〉であることはない》というのが答えになります。(了)

山口尚
2023年12月10日 14:56
追伸:最後の点への応答を忘れておりました。以下です。

すなわち、以上より〈不快にもとづいて、生理学的に応答が生じること〉はこう記述される限りにおいて〈責め〉であることはないと言える、と。そして、人間にかんしてこのレベルの記述を行なうことはいったんは可能ですが、根本的には私たちは自らが――物質機械ではなく――〈ひと〉として記述されるレベルを生きています。これが〈ひとがひととして生きる〉ということです。(了)

ハラタ
2023年12月10日 14:57
返答ありがとうございます。
問題になっている「責め」というものの位置付けについて、納得できました。

これを踏まえると、責任虚構論者が仮に自由意志や責任概念を「虚構的に」導入しようとしたとしても、その時点で自由意志や責任概念の必要性を認めているのだから、「責め」に突き当たり、自己矛盾に陥る、と理解できるように思われます。

山口尚
2023年12月10日 15:02
おっしゃるとおりで、そのように導入することが行なわれている次元が(〈行為〉や〈自由〉のみならず)〈責め〉の可能性を認めている次元なのです。

noname
2023年12月14日 23:30
私からも一つ伺いたいことがあるのですが、山口先生の仰る「自由」や「行為」というのは一体どういうことを指しているのでしょう?

御著書にも書かれていたように、それは「行為者としての実感」のようなものなのでしょうか。

山口尚
2023年12月15日 07:33
ご質問いただきました。私が用いる「自由」や「行為」は何を意味するのか。

拙著に自由や行為を「行為者としての実感」と書いたおぼえはなく、むしろ《自由や行為を「実感」のような感覚と捉えること》は間違いだと言えます。例えば「痛み」は行為ではない(そしてそこに自由はない)という例から見てとれるように、〈感覚〉と〈行為〉そして〈自由〉とはカテゴリーが異なります。

で、〈行為〉や〈自由〉とは何かと言えば、拙著でも書いたように分析的な定義はできません。むしろ諸概念のつながりの中で捉えるべきものです。そして、〈行為〉や〈自由〉は〈主体性〉や〈選択〉や〈責任〉と一群のクラスターを為す概念であり、逆に〈感覚〉や〈出来事〉などとは対比的区別を置かれる概念です。そして私たちは、こうした概念たちを駆使して、世界を捉えています(ただし、ここの「捉える」というのも〈行為〉ですので、この概念は〈完全に対象化はされない枠〉のような部分に属します)。

noname
2023年12月15日 17:49
「行為者としての実感」とはお書きになってはおられませんでしたが、「人間の自由と物語の哲学」の冒頭においても、手をあげることを例に、日常的な体験における選択の自由に触れ、そこから科学の視点に移られていたものですから、それらの概念の出どころはてっきり我々の日常的実感に根差したものかなと思った次第です。

また先日出版された「人が人を罰するということ」においても7章で、御自身の過去の御経験の語りの中で、(科学的世界観の真理性を認めつつも)「「自分の行動を自分で決められる」と思うことをやめられなかった」とありましたので。

確かに「感覚」は「ただ起こること」の方に属するものですね。

noname
2023年12月15日 18:05
「それらの概念の出どころ」というのは、つまり「人間の生の一般的枠組み」自体の出どころということですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?