門司港駅物語
近代の門司について
江戸期から明治初期にかけて門司は塩田が広がる寒村でした。参勤交代で本州に渡るには小倉小笠原は水軍に守られて関西方面へ、福岡黒田は黒崎からその他の藩は大里から赤間が関へ渡っていたのです。現在では、関門橋、海底トンネル(車道と人道)、関門連絡船、JR在来線、JR新幹線と7ルートがあります。
明治22年に資本金25万円で門司築港会社が設立(渋沢栄一も出資相談役)され、同年には米、麦、小麦粉、石炭、硫黄の特別輸出港となり、その後明治32年に門司港が正式に開港、輸入もされるようになって門司港が発展してきます。官営製鐵所ができ、ますます繁栄してきます。特に若松で集積された石炭や、鉄道によって直接門司港に集められた石炭が輸出されるようになり、大正5年には日本一の国際貿易港となったのです。
明治42年(1909年)11月、長崎税関門司出張所から分離独立し、我が国7番目の税関として発足しました。
近代化の原動力となる石炭に群がるように三井物産、三菱合資、横浜正金銀行など次々に中央資本が進出、日本の二大商船の大阪商船や日本郵船も拠点となる支店を開設しました。明治24年にはここ門司から高瀬まで九州鉄道も運行され、海陸ともその発展ぶりは目を見張るようになり、アジア大陸への玄関口となったのです。
昭和10年前後には国際貿易港・外国航路定期貨客船の寄港地としてMOJIPORTで世界に知られるようになったのです。またそのころ軍事港としてもその役割を果たしてきました。
しかし、第二次世界大戦終戦直前には、米軍が重要な国際航路である関門海峡に大量の機雷を投下し、戦後4年かけて掃海してようやく船が通れると思いきや朝鮮戦争が勃発して米軍が接収し、その間貿易は大陸から太平洋側へと変化、急潮流・水深の浅さ、船の大型化などで国際港としての地位が失われてきたのです。現在は太刀浦やひびきなど北九州港として西日本最大級ともいわれる港湾都市となっています。また、高速道路や海底トンネルができて門司港は通過都市となってしまいます。
それらが今に残る数々の建築物や文化が歴史を語る「日本遺産・関門ノスタルジック海峡」として認定されました。その中心的建造物が門司駅(門司港駅)です。
== 門司港駅(旧門司駅)==
かつて九州の玄関口駅「門司駅」として栄え、復原された門司港駅。
門司駅は1891年、九州鉄道の始発駅として、今の北九州銀行門司港支店付近にありました。富国強兵、殖産興業というスローガンで工業化は大都市から進み近代化を急いでいた明治政府は遠い九州まで手が回らなかったのか、日本の鉄道開業は1872年なのでそれから20年後となったのです。明治34年、本州で下関まで鉄道が繋がったのを機に連絡船乗り換えの利便性を考え、大正3年に現在地に移設されました。それまでは前の門司駅から桟橋通りを歩いて船に乗り下関へ渡っていました。当時の九州での1等駅は、長崎、若松とこの門司駅だったのです。
昭和17年には海底鉄道トンネルができ、大里駅が門司駅に、門司駅が門司港駅と改称されました。昭和39年に関門連絡船が終了となります。昭和62年国有鉄道からJRとなり、昭和63年に鉄道駅として初めて国指定重要文化財に指定されました。復元された現在の門司港駅はその費用は約22億円。
◇駅舎外観
左右対称のネオルネッサンス様式で、時計は大正3年当時はなかったのですが4年後に取り付けられ、復原時には一応駅ということでそのまま取り付けられています。九州では初めての、直径約80cmの阿部式電気時計(今のシチズン)で駅長室の標準時計からホームなど数か所と連動されていました。屋根は石板スレート、復原時に宮内庁資料から屋根に飾りがあったことがわかり、取り付けられました。デザインは門司の「門」ともいわれております。壁には瓦が埋め込まれ石張り風モルタルです。
1945年(昭和20年)3月5日米軍による爆撃にあい弾痕が39か所見つかっています。
◇コンコース
空間部分が広いため官営製鐵所の鋼材と木材のハイブリット構造になっています。向かって左側(観光案内所とみどりの窓口がある)が1,2等待合室があったところで、壁の色は黒だったことが判明、3つの扉が見えますが、左が電信受け付け、真ん中が洗面所(現在駅長室へ)、右が1,2等専用切符売場。使用木材は米松。
向かって右側が(現在スターバックス)が3等待合室だったのです。使用木材は杉。スタバの横に荷物預かり所がありました。
◇改札口前
ヨーロッパではよくある頭端式駅舎で、始発終着駅ということでホームには売店もベンチもありません。よく見ると3番線の表示がありません。何故でしょう?実は○○だったのです。(観光ボランティアガイドが説明してくれます)駅員さんの制服はこの駅だけのもので、新橋~横浜間に初めて鉄道が開業した時の制服を模しています。前の動輪は地球を6.7周、約270万kmを走ったといいます。
改札口右側に行くと、昭和6年から39年まで利用された下関への連絡船乗り場跡、資料室があります。
誇りの鏡やみかど食堂、貴賓室のカーテンなど資料室の説明は観光案内ボランティアからお聞きくださいね。え~、そうなんだ~という話が聞けると思いますよ。
左側(トロッコ列車潮風号乗り場、バスセンター方面)に行くと、戦後再び祖国の土が踏めたとホッとして美味しい日本の水を飲んだという「帰り水」や、銅製手水鉢「幸運の手水鉢」があります。ここ門司駅は当時から水洗便所だったのです。
トイレの前の窓ガラスに注目してください。今では見られないガラスに気づくと思います。
洗面所の高さが低い!なぜ?(これもガイドにお聞きください…)
◇2階
階段、あるいはスタバの奥のエレベーターでどうぞ!
貴賓室や次の間、屋根裏の構造を見ることができます。ボランティアガイドから資料室の説明を受けて、大正天皇も休憩された貴賓室のカーテンが何故これだと判明したのか話は面白いですよ。
次室のカーペットの色は門司新報の記事から判明しました。
使用木材は欅です。
さてここから海辺散策してもよし、旧料亭三宜楼や九州鉄道記念館、栄町ぶらりでお土産など物色されては如何でしょうか・・・
定期観光ガイドは無料の「ガイドにおまかせ」「海辺散策」があり、ボランティアガイド常駐期間は当日その時点でガイドを頼むことができますが、予め小倉駅の総合案内所にガイドのお申し込みをお勧めします。(ガイド料はお客様何人でもガイド一人2時間以内1000円、団体の場合は原則10名あたりガイド1名です)
門司港駅を降りて先ずは観光案内所を訪ねて、地図やパンフレットをゲットしましょう!