日本の鉄造りは?…八幡の物語その1
【明治日本の産業革命】それは自前で鉄を作った事から成し得たのです。
八幡村(現在の北九州市八幡東区)が、今ある日本の原点なのです。
「鉄は文明開化の塊なり」と福沢諭吉はこんな言葉を残しました。
世界遺産 明治日本の産業革命遺産は、23の資産から成り立つ半世紀の物語です
日本の鉄造りは侍たちの近代化への挑戦でもあったのです。それは1840年から42年の間のアヘン戦争に遡ります。
幕府や九州の諸大名はおちおちしていたら、日本が植民地化される恐れがあると、大砲を作らねばと思い、1冊のオランダ書物、262ページ、図75ページのユリッヒヒューゲニン著、ロイク王立鉄製砲鋳造所における鋳造法を翻訳し反射炉を作ります。1851年の佐賀藩では伊東玄朴や杉谷雍介が翻訳、佐賀に続き薩摩藩も作り、その後全国で作られるようになりました。幕府直轄の韮山の反射炉は1853年に浦賀にペリーが来航したため韮山代官英龍は山中に作り、佐賀藩の技術指導があり、実際に大砲を作っていますが、萩の反射炉は佐賀から設計図が貰えず、反射炉を見学して、見よう見まねで作ったため実験段階に終わっています。
1858年に大島高任によって日本人だけで木炭高炉橋野鉄鉱山を創業しています。
1863年に長州ファイブと言われる、井上聞多、伊藤俊介、井上弥吉、遠藤謹助、山尾庸三が英国に渡航します。
1871年〜73年には、岩倉具視ら108名が欧米を視察。英国でパークスの、鉄を作ることによっていろんな産業が生まれて人々の暮らしが良くなったという説明を受けた伊藤博文は、日本も同じ小さな島国なので、輸入ではなく日本国内で自前の鉄を作らねばと考え進言し、1880年にイギリスの技術で官営釜石製鉄所ができます。繊維産業の発達、造船、鉄道の需要増大、政府の富国強兵、殖産興業もありました。しかし、原材料の供給などの問題を抱え2年で釜石鉱山田中製鉄所に払い下げしました。
1894年〜95年に日清戦争があり、戦後国内のどこかで製鉄所を作ろうと候補地を調べ、最終的に残ったのが、広島県安芸郡坂村(呉)、福岡県北九州の大里(門司)、板櫃(小倉)、八幡の4ヶ所です。
殆ど大里(門司区)に決まっていたのですが、安川敬一郎や芳賀八幡村村長らの努力でここ八幡に決定されました。
その理由は、
1、前の洞海湾を上ると筑豊の大炭田がある、
2、国際港の門司港がある、
3、洞海湾は外海から入ったところで、坂村ほどではないが軍事的にも程よい、
4、北九州地区は地震がなく自然災害が少ない、
5、自然が豊かで水が豊富に使える、
6、反対する地元民を説得して安川敬一郎や芳賀村長など有志らが熱心に誘致した事からです。
1896年、大島高任の子息大島道太郎らは欧米を視察し、最終的に恩師の勧めもありドイツの技術を取り入れることに決定しました。ここ八幡の官営製鐡所は日清戦争の賠償金のごく一部57万円が使われました。
1901年高炉に火が入りました。が、、、
〜〜続く〜〜