
九死に一生を得るということ
目次
◯死に損ないのプロローグ
◯「毎日」という偶然の連続
◯豪運の振り返りチャンス
◯死に損ないのプロローグ
「注意一秒怪我一生」というフレーズを聞いたことがあるだろうか。
工事現場や工場などで、注意喚起の為の言葉だそうだ。
外壁の補修などで、建物を囲うように壁面に足場があるのは知っているだろうか?
パイプや格子状の板などで組み上げられたアレである。
それを職人さんが施工しやすいよう高さなどを調整したりして組み上げていくのが筆者が当時やっていた仕事だ。
同業者から言わせれば、落ちるなんてのは危機管理が足りてねぇと笑われてしまうような失態だ。
とはいえ、外仕事で重労働、体調管理を徹底していても過酷なのには変わりなく、不慮の事故というのはある。
まして、職人の現場では急かされて早くなる風潮もある。ボワれるのはよくあることなのだ。
◯「毎日」という偶然の連続
8月3日に転機が訪れた。
その日は晴天、夏の暑さ真っ盛りといった日だった。
材料(360㎝の鉄の柱)を掴んだ拍子、ふっと足元が抜ける感覚がした。
「あっ、マズった……。足場ねぇや」
と思った時には、両踵とサブは同時に地面と激突していた。
両踵は鈍い音と共に痛みが、材料をがっしりと掴んでいた手はじーんという痺れが、一緒にきた。
落下の慣性で尻もちをついていた。
そしてゆっくりと材料が身体の方に倒れてきて、下敷きになるように背中から倒れた。
はっはっはっはっと呼吸はしづらく、足腰の痛みは増していく。
現場監督と責任者が話し、救急車を呼ぶ。
しばらくして救急隊員が到着、ストレッチャーに乗せてもらった。
少しの振動でも痛みが走り、とにかく耐える。
病院に搬送され、診察がされる。
研修医なのかまだ入りたてなのか、おぼつかない人が診察。
痛みと温度差でガクガク震えていたが、なぜか頭は冷静で「経験だ!ファイトー!」とエールを送っていた。
ほんとに寒くてベッドまで震え出したので、看護師さんたちが「やばいやばい」とベアーハグ(温風で温める布団的なもの)を使ってくださって、なんとか震えは治まった。
MRIやレントゲンで、今回の転落で折れたところを医師から教えられた。
「右踵が開放骨折、左踵も折れてます。腰椎も折れてて、仙骨もいっちゃってます」
「めっちゃ折れてますね……」
「めっちゃ折れてます」
痛みが酷いため、両足に痛み止めの麻酔が打たれた。どうやら右足裏から骨が飛び出ていて、すぐに手術が必要らしい。
そこそこ時間のかかる手術だった。
わかりやすくすると、バラバラに砕かれた骨を踵からピンを刺して集めて固定する作業で、ジグソーパズルみたいなものだ。
両足は包帯とL字の固定具でしっかり固定された。
そこからは高熱と発汗と痛みと眠気で2・3日はもうろうとしていた。
ICU(集中治療室)で過ごす時間はあまりにも長く感じた。
仰向けのまま、時計も見えず、音楽などもなく、話す気力も起こらず。
食事でだいたいどれくらいの時間が経ったかがわかる程度。
困ったのが排泄問題。
試してみてください。
オムツを履いて真横になった状態での排泄、めちゃくちゃ大変です。
特に私の場合、足が思うように動かせない上に尻に力をいれられないからキツイ。
尿は溜まるのだが、出せない。
「どうしても出ないと管を通さなくちゃいけなくなるから、なんとか出して」
「なんとか!!??」
「そう、なんとか!」
股の間に尿瓶を挟み、痛みに耐えながらなんとか出せて事なきを得ました。
看護師さん曰く「一度出せたら後はラク」とのことで、本当にその後はスムーズに出せるようになった。
7日、ICUから通常の病棟へ移った。
この時スマホを受け取り、方々に連絡をする。慌しい日々のはじまりだ。
既に病院から家族に連絡が行っていたが、まず心配をかけた事を謝った。
その日の夜は背骨が痛すぎて寝た気がしなかった。夢の中で、ふと幼少期の記憶が再生されていた。25年ほど前、飛騨の方の川で飛び込みをしていた記憶だ。
ふむ。痛覚で脳が活性化されたのだろうか?
8日の21時からは腹痛。
便が丸5日出てないから身体に悪い。
仰向けの状態からなんとか左脚を立たせることに成功、踏ん張って踏ん張って、23時にビッグなベンを捻り出すことに成功した。
感覚としてはチューブわさびを絞り出す要領で、腹の上から肛門に向かってぐーっと押し出していくイメージ。
マジで腹の中スッキリしたー。
ただこの時、オムツの問題点を発見した。
それは、便座の場合は自然落下するモノがオムツ中に留まってしまうこと。お腹の力が弱かったり便が固かったり多かったりすると、つっかえてそこで止まってしまう。どうしても残る不快感……。
腹筋は鍛えておいて損はない!
翌日、医師から診断結果を教えてもらった。
・高エネルギー外傷
・右踵開放骨折
・左踵骨折
・仙骨骨折
・第2腰椎椎体骨折。
呪文ですか?生まれてこの方骨折などしたことがなかった人間が、初めて骨折したかと思ったらフルコンボだドン!みたいな衝撃だった。
「そんなに折れてるんですね」
「そんなに折れてるんです」
その後手術や今後の方針を聞き、進めていくことになった。
仙骨は手術せず、自然に治るのを待つ箇所だという説明もされた。感染症などのリスクを避けるためとのことだ。
簡易コルセットが作られ、腰が固定される。
少しだけ痛みが和らいだ感じがした。
10日、左踵手術。
麻酔ってなんであんなに不快感なんだろうね。しかも血の巡りがいいところって関節だったりするわけなので、そこに針が刺さるから痛い。
手術は無事終了した。
術後、抗生物質の点滴が打たれる。
右踵の術後もそうだったのだが、抗生物質を打つと、熱が出る。今日も終わってからだんだんと上がってきている、寒いのか暑いのか…クラクラする。
術後は熱が出やすいらしいのだが、2回手術して2回とも40°近い高熱を出すというのは稀なようで、看護師の方も滝のような汗を見て驚いていた。
夜。「痛みで気絶する」そんな表現があるが、まさにその痛みだった。
女性の月もので「人によっては気絶するほどの痛みを感じる人もいる」という話を思い出す。
本当に「痛みの部分を『カポッ』と外して落ち着くまで離していたい」ほどだった。
あと、苦しい時に手を握ってくれる、さすってくれる、支えてくれる、そういう人が傍にいたのならもっと楽だったのだろうと感じた。
自分の大切な人に大事があれば(ない方がいいのだけれど)、仕事だろうがなんだろうが駆けつけて近くにいたいと思う。
13日、熱は37.6まで落ち着いた。
「ピー、ピー、ピー、ピー…………」
点滴のエラーが続く。
漏れてきたりしてるかも、ということで刺し直し。
多量の汗などでテープが弱くなっていたのかも、ひとまずエラーは治った。
両足の包帯は毎日替えられる。
傷が塞がるまでは、菌などを侵入させないためだ。
身体が起こせられない状態なのだが、首だけでその様子を見ていた。
両足がぱんぱんに膨らんでいた。
「なんだか自分の足とは思えないくらい腫れてますね」
「腫れはしばらく続くと思うよ」
「1.5倍、2倍くらい大きいですね……」
日々痛みとの付き合い。
痛み止めは飲んでるものの、それでも痛いものは痛い。ナースコールを押す。
痛み止めも重複して使えるものとそうでないものとでいろいろ厳しい。
「それでも痛いんです……」
「ごめんなさい、もう許可されてるのは使っちゃったから、我慢してください」
とストップがかかることもあった。
薬の過剰摂取(オーバードーズ)にならないよう、管理は徹底されているから当然と言えば当然なのだが。
血気盛んなお年頃の男の子には真剣な問題。
オムツが蒸れてナニが痒い!
30歳を超えて「オムツ交換お願いできますか?」と伝えるのは、なかなかに恥ずかしいものだ。
介護してもらわないと動けないから仕方ないと言えばそれまで。だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
とはいえ、この歳で老年に体験するかもしれないことを先に体験できたのは良かったと思う。
ちなみに、陰洗というものがあるのだが知っているだろうか?
「陰洗、介護」で調べると手順などが動画やイラストで出てくるのだが、要するにお下を洗うこと。
これは恥ずかしさが勝った。
動けないから仕方がないのだ!
そこは刺激すると大きくなってしまうのだ!
自然の摂理なのだ!
などと心の中で叫びながら、しばらくされるがまま身を任せる。
看護師さんや介助員(身の回りのお世話をする人)さんたちも仕事でやってるのだ。……うん。おつかれさまです!
あと、看護師さんってけっこう声でけぇのな。これは耳が遠い患者さんもいるから、聞こえるように大きい声で話してたら習慣になったのかもしれない。
上沼恵◯子さんかと思うトークの方もいらっしゃった。ちゃきちゃき動かれる方もいらっしゃるし、それぞれの病院の毛色が出るのかもしれないとおもしろくも感じた。
入院の裏では、一人暮らしの家は引き払われた。
情け無い話であるが、1人であれこれやるのは厳しかった部分もあり、実家に戻るようにしようとしていた矢先の出来事。
神様仏様が「そっちはあぶねえから、落っことさせてでも止めたろう」と言っているかのような感じだ。
14日、回診にて、一時期の重篤状況からはある程度の改善が見られる、とのこと。
執刀医の先生や看護師の方々のおかげさまです。人間の身体ってすごいなぁと思う。
「オムツに便が出た状態で放置されるとめちゃくちゃ不快感」
これはナースコールを押して1時間くらい待った時の話。
どうしてもタイミングというのか、悪い時はあるもので「オムツ交換お願いします」は後回しにされがち。自分でも思うのだが、緊急を要する問題かというとそうではない気がする。
「赤ちゃんはこんな感じでむずむずするから泣いて伝えようとするのかなぁ」と独り呟いた時、看護師さんが来た。
⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝⋆*
生まれて初めて『バブみ』を感じた瞬間だ。
「洗髪しましょう」
「えっ!?両足と腰を痛めて動けない状態でどうやって?」
「ベッドで洗髪はそれなりにレアケースなんですけど、できるんですよー」
この看護師さんは神様かと思った。
仕事の最中に搬送されたこともあって、汗をかいた状態でむずむずしていた。
身体は定期的に拭いてもらっていたが髪だけは洗えていなかった。
「ここで登場するのが、吸水性に優れたオムツなんですよー」
頭の下に新品のオムツを敷いて軽く髪を濡らして洗っていく。
よほど皮脂がついているのか、2回ほどシャンプーで洗ってようやくさっぱり。
看護師のSさん、ありがとうございました。
17日、病院に運び込まれてから左腕にずっと刺さっていた点滴用の針、これが取れる許可が出た。
点滴には体液の異常を治す、エネルギー補給栄養管理、その他の3種類がある。医師からの指示によって適したものが処置される。
これを1日に何度も針で刺さなくてもいいように、固定してある接続用の短い管と針に挿して点滴を交換する。
長らく刺さっていたものが取れて動きやすくなったのはありがたい。
18日、転院が決まったようだ。
明確な日程はまだわからないが、翌週の中ごろらしい。
それと同時に、リハビリも始まった。
一般的にギプスなどで一定期間同じ格好で固定すると、筋肉が伸び縮みする能力とが下がり関節が固くなる。
なるべく動かしていきたいとのことだが、足首はどちらも固定されているので指先だけ少し動かす程度。
それでも、怪我の衝撃を受けたまま15日全く動かしていない指先というのは固い。これはリハビリは大変な予感。
身体を拭いてもらっている時に気づいた。
「皮めっちゃポロポロ落ちてません?」
「生きてる証拠だねー」
人間、半月風呂に入らないと、皮膚が自然とめくれてポロポロ取れるんだと知った。
約1ヶ月で細胞は入れ替わっていく、と聞いたことがあるが、それらが1日1日少しずつ垢となって詰み重なってきたのだと実感した。
8月22日。風呂に入れてもらう。介助浴になるため、入浴用ベッドに横になりシャワーを当ててもらう。足はビニールが巻かれ防水に。相変わらず腰と尻は折れているので動きはコンパクトかつ慎重に。裸は仕方がない。
「洗いますねー、わっめちゃくちゃ垢出てくる」
「洗車みたいにゴシゴシやったってください」
キレイさっぱり。
この後、血行が良くなったためか、足や腰が痛くなった。
怪我した後の入浴には気をつけて!
8月23日、地元の病院へ転院する日。レンタルの寝巻きを着替え、介護タクシーが来るまでに検温、朝食、身支度を済ませる。
今回は仕事先から地元へ移動という事で、なかなかの距離の転院だ。
「長距離なので少し辛抱してくださいね」
「辛抱……そんなに……?」
ワンボックスの車両でストレッチャーのまま運ばれる。硬めなクッションに固定されてるから腰が痛い…。県を跨いで長時間のドライブは身体にこたえた。
「長時間おつかれさまでした」
「身体のあちこち痛いです」
「体重測りますね」
ここで驚愕の出来事を耳にした。
「66kgですね」
「……えっ!?」
20日間寝たきりで体重が6キロ落ちていた。それだけ筋肉が衰えたのだろう。太ももやふくらはぎはかなり細くなっていたことに気づいた。これは戻すのが大変だ。
その日はじっくりくたばった。
24日、リハビリが始まる。
左の方がまだ軽傷だったのでそちらから始まった。
「足首や腰が痛いのは、動いていないから」
そう言って指先から順々に動かしていく。
「昨日より今日、今日より明日で少しずつ動けるようにしていこう」
ガンガン行こうぜと理学療法士の担当は言う。なるべく負荷をかけていくと宣言されてしまった…。
25日、風呂に入る。ありがたいことに週2回介助浴で入れるそうだ。2人がかりでストレッチャーに横になったおっさんにシャワーを浴びせ、頭と体を洗う。
「洗車みたいな感じですねー」
「……そう?(苦笑い)」
毎度のことなのだが、垢が浮いてきてポロポロ取れる。人間の細胞というのはこうも変わるものなのだなぁとしみじみ。苦笑いされたのはご愛嬌。
理学療法士さんから課題をもらった。
①足首を上に曲げ
②下に曲げ
③両膝を固定して足上げ
④かかと固定して足先を上向きに曲げるストレッチ(3分)
これを朝昼晩1セットずつ、慣れてきたら時間を延ばす。
簡単な動作。
「あれ?動かない……」
それがまったく動かないから歯痒い。
今回骨折して驚いたことのひとつ。
パンパンに足が腫れたのだけれど、腫れが引くに従ってシワが出てきて、そこからペリペリっと皮が剥けていった。脱皮みたいな感覚だった。
28日、リハビリに座った姿勢から、お尻を垂直に押し上げる運動が追加された。これがベッドから車椅子に移動する動作に必要なるため、衰えた筋肉を戻しておく必要があるとのこと。
30日、がっしり目のコルセットができた。今までのはなんだったのかと聞かれれば、緊急用のものを代用していた、という形だ。
「かなり大きいですね……。つけると動きがかなり制限される……」
「そうですね、腰を曲げないように固定するので動きずらいのが正解なのでしっかりしてますよ」
中世ヨーロッパで貴族とかがしてたようなガッと腰を固定するタイプだ。
31日、朝からずっと右足がピリピリと痛む。
今日は何もできそうにない。たまにしか使わない鎮痛剤を飲み、横になる。心なしか熱もあるようで身体が暑い。
オムツの交換待ちが長い……なんとも気持ちが悪い。
9月3日、制限付きではあるものの、車椅子で移動できるようになった。
ただ踵がつけない。
ひじ掛けが車輪の後ろに開く車椅子をベッドの横につけ、体操競技のあん馬みたく身体をベッドからスライド移動させて乗る。
まだ仙骨が固まっていないためか、座っているのは1時間程度が限度だ。
それでも、ベッドだけの世界よりも格段に気晴らしになる。なにより「動けることはうれしい」そんな気分にさせてくれる。
約1か月、歩かない生活をしていると、立ち膝をするだけで痛みが走るようになる。それほどまでに筋肉が弱るのだと知った。
立ち膝で横に歩く練習。ギプスがあるので真っ直ぐには進めず、ベッドのヘリに膝をついて横に移動する。コレだけでも相当にキツい。生まれたての子鹿のようにプルプルしているのは筋肉が落ちてるからだ。
このリハビリをした午後、壮絶な眠気に襲われて寝ていた。
どれだけ体力が衰えていたか、身に沁みて感じた。
5日、病院に内接されているコンビニへ行く許可が出た。
ただし「混み合う時間を避けて(14〜18時くらい)行けば車椅子でもストレスフリーで行ける」(車椅子で行くと通路が塞がるから、混み合う時間は避けてくれ)とのことだった。
久しぶりにコーヒーを買った。それだけでも非常にうれしかった。自分の意思で「そこ」へ行き、決定出来たことがだ。
左足の回復が順調なようで、手術でえぐれた傷が塞がってきた。
事故から約1ヶ月、包帯などで洗えなかった足には垢がこべりついていた。
主治医が清潔にするために足湯を用意してくれ、そこで垢を落とす。
ポロポロと捲れてはお湯へ流れていく。
それと同時に血行が良くなったからか、じんわりと痛みや痒みもあった。
10分くらいで驚くほど桶に垢が溜まった。
左足でこれほど出て、しかもまだまだまだ残っている。
右足は未だにギプスでぐるぐる巻きだ。取れる頃にはどんな状態になっているのか……想像するだけにしておこう……。
13日、明日、ようやく右踵のピンが取れる。
骨を固定する為の4,5㎝のピンが5本、
これで右足のリハビリも始められる。
歩けるようになる、これが当面の目標である。
20日には踵を浮かせるような装具も出来上がり、歩行の運動になる。
朝、早々にピンを抜く。
「麻酔はしないで行きます」
「麻酔なしですか!?」
「なんなら、ベットでやれるのでやっちゃいます」
「What's!!??」
麻酔しない、しかも病室ですると聞いて、ビビっていたが、思ったよりスルッと抜けた。
抜けたのはいいのだが、血が吹き出た。
そして1ヶ月半もL字で固定されていたせいで、ガチガチに関節と筋肉が固まっていた。
リハビリでは右足も少しずつ動かしていく。まずはマッサージから始まる。
事故直後からパンパンに腫れていて、徐々に腫れは引いているとはいってもまだまだ治ってはいない。
筋が癒着しいて、まずはこれをほぐして剥がして動くようにすることから始まる。
毎日少しずつ、地味な運動を続けなくてはならない。
「いててててて」
「うん、がんばれ」
「いたたたたっ!」
「おう、こらえろ」
動くギリギリを攻めてくるリハビリは今後のため、声に出して痛みを発散する。
9月21日、リハビリ病棟へ移動。
ここでは年中無休でリハビリが行われる。
生活の為の運動に1日を通して慣れていく。
戻していくと言った方が正しいかもしれない。
「今度の部屋はトレインビューですよ!」
「とれいんびゅー?」
看護師さんは楽しげに言ったがピンと来なかった。
病室の窓際、電車が見える。ふむ、鉄道好きには堪らんだろうなと思いながら瞼を閉じた。
残念ながら私は興味がないのだ…。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
リハビリ担当の理学療法士さんが交代し、もの腰の柔らかそうな朗らかなMさんになった。
ようやくくるぶしが曲がるようになってきた。
だが、右足は1ヶ月半も固定されていたため指先がガチガチ。
腫れの影響もあって、足裏の凝り固まった筋肉を解さなくては歩行が難しい。
ここからは痛みとの我慢くらべだ。
「本来動くはずの可動域が狭くなってるだけだから、今動かさないと歩く時に力が入らなくて後が大変になるよ」
「いたたたたたたっ!」
「なかなかやりがいがありそうだ」
地味な伸ばし運動やマッサージの日々だ。
25日、装具をつけて立つ練習が始まる。
イメージとしてはヒールのような感じでつま先重心になり、土踏まずで立つようになっている。踵は空いていて、荷重がかからない作りだ。
これが片足約7万円、両足で約14万円。
保険が効いてもなかなかの出費だ。
立ってみた。
やはり2ヶ月近く両足を着けていなかったからか、立つだけで疲労感。腕で平行棒を支えないと厳しい。
退院前に主治医に、会社宛に退院後の療養期間の目安を書いてもらわないと、悪化すること受け合いである。
立ち練習の初日はヒザがガクガク、ふとももプルプル、足の裏ジーン
足裏痛かった。
翌日は眠気が半端ではなかった。
「あたたたっ!」
「(目を逸らす)」
「たいたいたいたい!」
「ここ硬いんだよなー」
「タップタップ!(バンバン)」
「ノーロープノーロープ」
「wwwwww」
右足裏に刺すような痛み。
筋肉の凝りなのか、骨が突き出てた所の傷が癒着して痛いのか。どちらにしても痛い。
リハビリをしないわけにはいかないので、痛み止めを前もって飲みほぐす。
人間って不思議なもので、耐えられる痛みだと笑いが込み上げてくるらしい。
小指の痛みは、例えるなら、凍傷にかかったよう、感覚が鈍くはあるが感じる。
足の腫れについて、自分の身体の形が変わることを目にすると、不安になる。この先どうなるであろう元に戻るんだろうか。もしかしたら女性が子供を身ごもった時に感じるような不安に似ているのか、なんて大層なことを考えてみる。
リハビリをしてくれる人は、どういう風に治していこうかと言うことを考えるらしい。
「山があったら登ろうとする登山家のように僕らも固まっている関節があればどうしたら動くようになるかと言うのを考える」
とMさん。なるほど。職人だ。
10月に入る。朝は疲労がすごい。日に日に増す足裏の張りと痛み、いつになれば終わるのか。
右足の荷重が、中旬には0から全荷重になるとのこと。理論上は可能だろうが、実際の痛みなんてのはやってみないとわからない。
「いやー、楽しみだね」
「絶対痛いでしょ」
「リハビリでほぐしてて痛いくらいだから、0から全荷重は……楽しみだね!」
「やだなwww」
不安である。
今の自分自身の状態をひどく不安に感じることがよくある。
仕事中の怪我とはいえ、療養している今の時間がもったいなく感じる。
働き盛りというか、30代という活動的な時期を療養で過ごしていることが、ひどく情けない。
なにより健康寿命がどんどん減っていっているような、そんな感覚だ。
仕事にしてみても、今後同じような仕事を続けるのは厳しい。実際のところ、事故から3ヶ月経とうとしているが器具がなければ歩くのは難しい。
神経は縫合したところから、1日1㎜ずつ回復すると言われている。
両足のくるぶしのやや下のところに傷があるから、そこから少しずつ良くなるのだろうか。
入院中呼んでいた本に「褒めて接しよう」とあった。自分を褒めよう。
時折、足が疼く。痛みが走る。
高所から落ちる夢をみる。
ふわりと浮く感覚だ。
横になっていた時間が長ければ長いほど体力は落ちる、戻すのにどれだけかかるのだろうか。
10月26日、右足に全荷重をかけられるようになった。
「全荷重」とは、体重が60kgなら60kgをかけられるもいうこと。
「はいどーぞ、となったけど……どう?」
「めっちゃ痛いです」
「だよねぇ」
気づいたのは、つま先に力が入らない、踏ん張りが効かないということだ。
11月2日、両足が機具なしで全荷重かけられるようになった。
「普段のように歩いていい」と理学療法士さんに言われたが、普段の歩き方を忘れてしまっている。確か踵から踏み込んでいたような気がするが、同じようにしようとしても痛みやら硬さやらでフラつく。
寝たきりで足を固定していたのが1ヶ月半、
車椅子期間が1ヶ月。動かさないことで固まった筋肉や関節はその期間の2〜3倍機能を取り戻すのにかかると言われる。
これは慣らすまで時間がかかりそうだ。
高齢の方がペタペタと歩いているのを見かけたことはあるだろうか?まさにそれで、足首がガチガチで踏み込みが浅い。スムーズに体重移動もしにくいため、上体が垂直の状態で移動していくイメージだ。
足裏も骨が直接当たっているかのような感覚。
リハビリのために、病室からリハビリ室に移動する往復の100メートル程度でも、疲労感がひどい。
これが1日100,200,300と増えていけばその分疲労感は何倍にもなる。
とはいえ、日常生活が送れる程度には筋力を戻すことが必要だ。
14日、3ヶ月ぶりに公道を歩いた。
病院の外回り程度だが、新鮮な感じがする。普段の歩き方を忘れてしまっている……。高齢の方々がするペタペタ歩きは、足が上がらない、足首や足裏が痛いなどからそうなっていることが体感できた。
介助の際は、体重を支えるようにすると負担が軽減されると感じた。
そして少し歩いただけで疲労感。
日常生活の体力を戻す日々。
歩け!
ベタ足を直すには、足裏を後ろに向けていくように意識すると「蹴り出す」ことが習慣になる
朝は関節が固くて痛い、昼以降は疲労で痛い。
しかし、痛いからと動かなければ、骨や筋肉は固まる。
歳を取れば節々が痛くなり億劫になり動かなくなっていくのだろう。日頃の運動習慣は健康寿命を伸ばすのは間違いないようだ。
一年は走ったり跳んだりするのは避けるようにとのこと。
左足にボルトが入っているのだが、これは骨がある程度定着したら抜いて、抜いたところが骨で埋まることで強化されるとのこと。
高齢であれば抜くよりも入れておくことが多い。
階段の上り下りは特に厳しい。
「なぜかって、高さがある分足首の角度が急になるから硬さで痛いし、踏ん張る筋肉がまだ弱いから支えないとふらつくよね」
「ほんとだ。1段ずつでもキッツイ!」
2週間かけてようやく上りはふらつきがなくなったが、下りはまだまだだ。これは時間がかかりそうだ。
29日、ついに長い入院生活が終わり、自宅での療養が始まる。それとともに社会復帰もスタートする。さてさて、どうなることやら。
◯ 豪運の振り返りチャンス
今回の事故で、思うことはたくさんある。
その一つが、多くの人に支えられて生きているということだ。
20年以上前の話になるが、9歳の頃に脳内出血を体験した。
それは先天性の事故みたいなもので、生まれつき繋がってはいけない血管が繋がっていてそれが生まれてから9年で破裂したのだ。
ここでの「たまたま」が6つある。
・たまたま発症したのが人目のあるところだった
・たまたま発症後すぐに病院に搬送された
・たまたま緊急搬送された病院が県下で一番の病院だった
・たまたま日曜日であったが当直の医師が日本でも屈指の脳外科医だった
・たまたま「成功しても8割植物状態、2割は不随などの後遺症が残るだろう」という見立ての手術が成功した
・たまたま「発症した年齢がまだ発育段階だった、発症から迅速な手術への移送ができたため」後遺症もなく40日で退院した
この時も多くの方に助けてもらった。
もちろん、発症当時の私は意識がなかったので、8日後に目が覚めたらなんだかすごいことになっていた、という状態だった。
この当時リハビリもしながら学校へ行くことになったのだが、家族や学校の先生方に支えながら無事に小中高と進学できた。
今回も多くの人の助けがあって、たまたまこうやって書き残すことができている。
すぐに救急を呼んでくれた現場監督、迅速に駆けつけて病院まで移送してくれた救急隊員の方々、執刀医やそれにまつわる医療関係者、欠けた穴をフォローしてくれた会社の方々、家族のフォロー……。
・高エネルギー外傷
・右踵骨開放骨折
・左踵骨骨折
・第2腰椎椎体骨折
・仙骨骨折
3階の高さから転落してこれだけで済んだのは、不幸中の幸い。
もし落下する時に材料(360㎝の鉄の柱)を垂直に持った状態で落ちなかったら、衝撃はさらに強かっただろう。死んでいたか不随になっていたかもしれない。
もし足場の真下に落下していたら、立てかけてある材料に直撃して別の大怪我をしていたかもしれない。
もし症状が悪化していたら……。
この1年のうち、拘留期間22日(別記事に体験談あり)、入院生活が約4ヶ月。こう過ごしてみて感じたことがある。
不自由ではあるが、守られていると。
失敗したり不幸が起こった時、生きるために必要な環境が
つまるところ、この1年でどこまでいっても自分1人では弱く生きられないことを実感させられた。
ふとした時に、思う。
「自分は無力だ」「なんのために生きてる?」「30代で半年近くも無駄にして、何やってるんだ」と。
入院中何度も頭の中を駆け巡った。
そしてたびたび落ち込むこともあった。
そんな時に心の支えになっていたのは人との繋がりだ。
メールやSNSで励ましの言葉をいただいたり、時には物資をちょうだいしたり。
ひと昔前であれば、入院中といえば隔絶された空間で本を読んだり書き物をしたりがせいぜい。
気が滅入ってしまう人もいたそうだから、それに比べると精神的にずいぶんと楽になりっている。技術革新ばんざい。
答えは出ていないが、助かった命をどう生きるか、考えて行こうと思う。