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段ボールと責任



今日マンションのゴミボックスから段ボールを回収した。



これだけではわたしがごみ収集に従事している人間であるのか、はたまたゴミボックスの中に段ボールを見つけては人目をはばからず回収する盗人であるのか、判断することができない。


正解はどちらでもない。
単に段ボールのごみ収集の日を1日遅れで間違えてしまっただけである。



「単に」とか「だけ」とか書いたが、こちとらそんな軽い事象とは受け取っていない。


ここ数週間、わたしは少しでも家の中を快適な空間にしようと、さまざまな収納グッズをネット注文していた。言わずもがな、それは段ボールによって送られてくる。それゆえ、床を占領していた服や小物類が収納グッズに吸収され、新たな生活空間が生まれた一方で、あろうことか大量の段ボールが今まで維持されていた可動空間を占領し始めたのである。


しかしこちらも段ボール収集の日が近いことを知っていたので、苛立ちは最小限に抑えられていた。大量の段ボールを二つに分けて、それぞれをビニール紐でクロスに結び、前日に余裕をもってゴミボックスへ持っていった。めちゃくちゃ重たかった。重たかった分、ゴミボックスの奥へ押し込んだ時の爽快感は凄まじいものであった。もう家の中に邪魔者はいない。


それがだ。
今日の13時過ぎ、明日の燃えるゴミをゴミボックスへ持っていったところ、そこにはあの大量の段ボールが前日から姿を変えず、微動だにせず佇んでいるのである。


「あれ、こんな時間までまだ回収しに来てないんだ。まあ日曜だしね、ごみ収集の人も早起きせずゆっくり作業してるのかな。それかもしかして、うちのマンションだけ回収忘れられちゃったのかな。それなら明日急いで回収しに来てくれそうだな。まあ行政の人でもそうゆうミスしちゃうよね。」


1時間くらいそう考えた。
そのあいだ近所のケーキ屋に向かった。
美味しそうなマロンケーキとザッハ・トルテを手に帰路につくわたしであったが、もうすでに妙な胸騒ぎを感じていた。



いやいや間違っているはずがない。だって、「新聞・段ボール」のマーク、カレンダーの右端だったじゃないか。あれは、日曜日の今日で間違いがない。それに「23日」って記憶してたし。間違えてるわけあるかーい。



ゴミ回収日カレンダーを決死の思いで開いた。
現実は残酷である。
めちゃくちゃに間違っている。昨日やん。土曜やん。22日やん。



別に回収日間違えても数日くらいおいておけばいいのでは。何をそんな大袈裟に。と他人はいう。


わたしの地域は段ボール回収が1ヶ月に1回である。


それゆえ放置なんてできない。ましてや、大量すぎてゴミボックスの半分以上を陣取るくらいだ。そんなもの1ヶ月も置いていたらマンション住人はゴミを出すたびに「クソがッ」と唾いっぱいに文句を吐き捨てなくてはならなくなる。それはあまりにも酷である。


そうなれば、もう回収するしかない。
だが、簡単ではない。ようやく手放した、わたしの可動空間を脅かし続けていた大量の段ボールを、再び、この手で、自分の家の中へ迎え入れなくてはならない。
しかも、ゴミボックスというキレイとはお世辞にも言えない空間から引っ張り出さないといけない。出ていった時よりも明らかにタチが悪いのである。


こんな苦々しい思いを味わうことになったきっかけが100パーセント自分にあることは、文字通り百も承知である。



しかし、人間というものは勝手である。
先日ちょうど知人と「自分が出した排泄物を自分が踏むのは嫌だが、他人が踏むのは別にいい」という話をしていた。最低すぎる。



今回の件、ブツは違うがまあ似ている。
自分から生み出したゴミではあるが、一度手を放せば、排便後のようにスッキリである。あとはもう知らない。回収され消えるだけだと。一度自分から切り離されたものとは、もう関わりたくないのである。


しかし、戻ってきた。以前よりも汚くなった状態で。
まるで先述の無責任な排泄物への所見を戒めるかのごとく、それは今後1ヶ月、わたしのそばから離れないのである。



紛れもなく、全ての責任はわたしにある。

責任というもの、それは、自身が生み出す全てのものに付随し、いかなるときも自らの手で処理・回収しなくてはならない、とてつもなく重たいもの。



人間の責任がいかなるものかを学べたことに喜びを感じよう。



奥歯をギリっと噛み締めながら、どうにかこうにか真理っぽい事柄に結びつけて、この不甲斐ない気持ちを消化させようと試みる、そんな小物一般人の一日常であった。















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