懐古六
きっと、人は最初から最後には死ぬためだけに生きている。
そんなふうに思ってから何年経っただろう。
時々記憶を消して18くらいからやり直せたらいいのになんて思う、でも本物の18歳とやり直しの18歳では雲泥の差があるのは確かなのだ。
それに記憶を消した所で、それは今の自分を構成する要素を失うのと同義ではあるので、結局喪わずに越したことはないのではないのか?と思わざるを得ない。
許せなかった何かを忘れてしまうことこそが自分が既に失った原動力すらも何処かに追いやってしまうような気がした。
誰かの幸せが私の不幸でもあることは悲しいかな、確かであるのだ。
全員が幸せになることなんて有り得ないんだから、そういうのは受け入れなくちゃいけない。
それが大人になるってことなんだ。
なんとなくそういうふうに言い聞かせる、ネットで見た「一生懸命頑張っていても誰かの物語では悪役になる」そういうのと似ている。
それでもΘみたいにただ沈む事も、誰かみたいに泡になることも或いは桜みたいに泣いたりしない、悪いやつと断定されてもいいからあの頃泣いた私というもののために世間に一矢報いようという朽ち果てた感情だけは留まり続ける。
それでも幸せにすらなろうと思えないのは世間という屑に今更罪悪感の埋め合せに愛されてたまるものかという底意地だけだった。
思えば、誰かの物語みたいに私には誰かが居ることはなかった。漫画やアニメみたいに総士に対しての一騎やグリフィスに対してのガッツが居ることも、雨宮優子に夕が居たり、久瀬に対するミズキが居るわけでもなく、或いは脳裏を掠めるようなバレエメカニックもなかった。今思うと恥ずかしい話ではある。そういう有り触れた感情は私にとっては今や思うことすら恥ずかしいものになった、甘えるなということでもある。
そう思うことが自分の旧友だった誰かにとって失礼であっても、私にとっては誰も居なかったと断定するに値する程度に孤独であった。一人じゃないなんて思いたい誰かの譫言で、それは君が孤独から逃げただけの話なのではないか?
誰かに望まれた自分のためにはきっと邪魔な感情でもあった、本末転倒であるようにも思う。自分を探すために自分を見失ったのだから。
……それでも、誰かにとっては私は幸せであると述べなければいけない人なのだから恨まれてしかるべきだという不躾な感情は呑み込まなければいけない、未だそれに納得できかねるとして。
壊れたものは戻らないし、喪われたものは戻らないからこそ誰かを何かを今度こそきっと大事にしようと思う。私はかつての喪われた自分を時々懐かしく思う。ただそれだけで私はそのための今度こそ大事にされる誰かのための犠牲でしかなくて、それならば私の代わりに大事にされるものを少しくらいは恨む権利ある、多分。
結局私はそんなに優しいやつではないのだから。