誰かの幸福を祈る ブータンの旅で得たこと
九月だというのに夕刻のブータンはすでに肌寒く上着を持たなかったことを後悔していた。
ガイドのソナムの案内で料理屋に入った。狭い店内に客はなく中央のテーブルに通された。既にテーブルには二人分の食器類が並んでいた。二人分ということが私の注意を引いてソナムを見る。今晩は一緒に食べるよ、という。これまで彼は私と離れた席で馴染みの同国人の輪の中で食事を済ませていた。入店前に「運転手と三人でナイトクラブに行かないか」と話していたことを考え合わせるとこの食卓はもう彼にとってオフの時間なのだろう。
まずはドゥルクビールで乾杯だ。
登山後で渇き切った喉に苦みの強いビールを一気に流し込む。ウェイトレスはいくつもの大皿を運んでくる。どれも人数に不相応な大盛りだ。大き目の皿いっぱいの白米が艶やかに光り、サラダ、野菜炒め、パクシャバという肉じゃが風の料理、いずれも過剰だ。食べきれない料理でもてなすのがブータン流か。フードロスという概念がないのか。廃棄されるといっても焼却されるのではなく土に還っていくのではないかと思うと罪悪感も薄れた。
私はケワダツィの一皿を見つけて感嘆の声を漏らした。初日に食べたエマダツィという料理は直訳すると唐辛子チーズ。とろみのついたチーズと青唐辛子を和えて炒めたものだ。ケワダツィはそこにジャガイモを加えたものだ。この青唐辛子の辛味が絶妙だった。辛さは並々ならぬ強さなのだが他のエスニック料理にあるような舌先に強い刺激をいつまでも残す辛さではなく柔和な山羊のチーズと絡み合い優しく辛味が下味の旨味と相俟って広がっていく。青唐辛子の辛味は胃の内側をも心地よく刺激する。
私は道すがらソナムにいかにエマダツィに感銘を受けたかを繰り返していた。「僕も君と同じように胃がそれほど強くないから多くは食べられないけれど好きだよ」と僧院から下山しながら彼は言った。エマダツィに比べて幾らかは胃にやさしいケワダツィは私とソナムの最後の晩餐に相応しい一品だった。
ここに彼の意向があったか定かではないがあっても何ら不思議ではない。ブータンは国王の下国民総生産に替え国民総幸福を追求している。
「この概念はね、誰かの幸福を自分の幸福と考えてその人のために尽くすことなんだよ」という旅の初日のソナムの言葉が思い出された。
「今度はホテルなんか予約しなくていい。家に泊めるからツェチュ祭りを見に来なよ」と彼は人懐こく笑みを浮かべて言う。色彩豊かな仏画が壁を飾り舞楽とともに仮面劇が催される夏祭りや彼の家族の家族がどんな笑顔で出迎えてくれるのかを想像しながらいまもまさに心からの歓待を受けているというその心地よさに酔いしれていた。