ダダイズム、未来派。塚原史『言葉のアヴァンギャルド』について
塚原史『言葉のアヴァンギャルド』(講談社現代新書)は、20世紀の前衛詩に通底する<切断の意識>に迫る。過去との切断であり、意味との切断である。前者はマリネッティの未来派であり後者はトリスタン・ツァラの『ダダ宣言』にはじまるダダイズムである。詩は存在論的問いかけから記号論的問いにかけに変容していった。マリネッティはレーシングカーにはじまる新しい美によって世界が豊かになったことを高らかに宣言し轟音を発し疾駆する自動車の、速度の美を示す。それは言葉の開放とも結びつく。文学における《私》を、心理学を、統辞法を破壊することを目指す。
一方、ツァラは「ダダ宣言」においてメタ言語的、メタ宣言的機能を担うが、ツァラにとってのメタ言語の行きつく先は反記号性。「宣言」の記号内容が消去された場所だ。DADAという語はそれがなにも意味しない以上シニフィエなきシニフィアンであり、未来派の未来、シュルレアリスムの超現実といった記号内容はダダには存在しない。
しかし塚原によればその後人々は意味や秩序に引き寄せられていく。ファシズム、ナチズム、コミュニズムといった政治的なシニフィエに。また現代は広告というシニフィエに。新たな規範を求める危うさを感じ取ってしまう。むしろこの混沌の中、均衡の不在を楽しんだらどうかと結ぶ。
大江健三郎『新しい文学のために』(岩波新書)では、まず、ロシア・フォルマリズムで展開された「異化」という理論に着眼する。人は自分を囲む外界の事物に関心を持たず、自動化作用を起こしてしまい目に入っては来るが意識にとらえられることなくないに等しい。
それを文節、文章のレベルから作品全体に至るまで異化という想像力を喚起する仕組みと工夫を施す。
文学理論を読む経験の積み重ねが書くための理論を形作るというような書き手と読み手の転換装置を示す。
また、バフチンの理論化したようにカーニバルの祝祭性や神話的女性像など文学の豊饒さを確保するモデルを示している。
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