もう、猶予がない、そんな気分で生きている
私は皆さん、ご存じの方も多いが、難病闘病中の身だ。
いつ、召されるかわからないと思いながら、再発と急変の恐怖にかられながら生きている。
それでも、私はまだ生きているし、できることもたくさんある。。。はずなのに、日々の生活に追われ、本当に自分のやりたいことができていない。
と言いながらも、自分のやりたいこと?ってなんなんだろう?
そこかよ?って感じなのであるが、人生を半分以上も生きてしまうと、やはりなんでもできるわけではなくなってくる。
自分がやりたいことではなくて、自分ができることに願望が変わってきてしまう。
私の今の迷走は、これが問題なのかもしれない。
やりたいことはおそらくは、今の年代では厳しくなってきている。
できることの中からやりたいことを感覚的(本能的)にチョイスして、そこに無心に取り組んでみたいのだ。
そうだ、私は無心になりたいのだ。
邪念がとにかく多すぎる、だから自分にとって必要のないことに気持ちを取られてしまう。
だから行動につながっていかない、ふわふわとした感覚のまま、行き先を探し求めて、いつもきょろきょろしながら、危なっかしい視線を送り続けている感じがする。
なぜ私は無心になりたいのだろう?
私は若い時からずっと無心になるほどに情熱的に生きてきたことがないからかもしれない。
どちらかというと、熱しやすく冷めやすい傾向があり、常に何か刺激的(官能的)に生きることを欲しながらも、実は真逆の方向に走ってきてしまったような気がするのだ。
その後悔が、その未練が、今の私を迷走状態に追いやっているのではないかと思うのだ。
さて、私は。。。書くことが好きだと言ったが、書くことで有名になりたいとか、具体的な願望がない。
これは、私の本来の願望が書くことに焦点を絞ったものではない証なのかもしれない。
noteでこんなことを書くと邪道と思われてしまいそうだが、きっと私は書くことをきっかけに、自分の殻を突破したいのだ。
だから、書かねばならないとずっと思ってきたのだ。
書くことが好きというよりも、書かねばならないと思って、ずっと生きてきたのではないかと思った次第である。
といっても、朝方に近い今夜の感覚なので、明日はまた違うことを言っているかもしれないので、あしからず。(苦笑)
さて、今日も生きるとしよう。