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失う

ある日、心の容器が全く見えなくなっていることに気が付いた。その事実は静かな驚きとして私の中に響いた。
だけど、それ以外は特に何も感じませんでした。何も感じなかったことこそが心の容器が見えなくなったことの証明にも思えました。

10代は多感な時代と言うけれど、私の思春期時代は全くその言葉通りだったと思う。17歳頃が一番多感だっただろうか。感動も絶望もわたしの深いところまで吸収されていって、その度にその形や匂い、味や舌触りまで余すところなく味わった。何か音楽を聞いたら胸が本当に痛くなったし、思い出せば切なさに焦がれることができた。いつでもその感覚を再生しては噛み締められていた。
17歳の私の感性は狭い身体に収まりきらず、外に飛び出して、全身を包み込む感性のヴェールを創り上げていたと思う。そのヴェールは、ある時は私を守り、ある時は言葉をねじ曲げて伝えて私を傷付け、私が大人に成長しようとするとそっと私を子供の殻に押し込めていた。そうやってそのヴェールの中で日々全力で感じ、生きる。思春期でしか許されない生き方だと思う。

もうすぐ19になる今の私は17歳の私よりたぶん少し精神的に成熟した。それは絶対に良いことであるけど、それはそうとして、当時確かに私を厚く被っていた感性のヴェールは今はもう霧散してしまって、ほとんど失われた。

あったものがなくなることはとても怖いことだ。この前別れが成長の鍵というような話をしたんだけれど、ここでいう別れとは人以外のものや自分でさえも対象になるんだろうと思う。きっと、私は私と別れた。別れた私はどこへ行ってしまった?消えたのか?今もどこかにまだ在るのか?それすら全然分からない。別れることについてずっと考えていくと永遠の別れや死という概念に辿り着いてしまって、とても恐ろしくなる。

ところで、ないことは良い事なんだろうか、悪いことなんだろうか。最近よく考える。短絡的に考えると、ないことは悪いことのように思える。でも世の中の真理は皆、ないことこそ価値があることだと説いている。最近は自己啓発なんかでその考えが普及してきて「ないことを恐れるな」と言うインフルエンサーがいたりするけど、本気で言っているのだろうか。考えを停止して分かった気になって言ってるだけでは?と考えてしまう。ないことを恐れないことはどんな人間にとっても本当に難しいことだと思うから。
二十数年生きただけの人間でそこまで到達できる人ってそんなに沢山居るんだろうか。私はあと5年とちょっと位でそこまで行ける自信が全くない。自信が無いからこそ、そうやって言っている人たちにいちゃもんをつけてストレスを軽減しようとしている。愚かな人間です私は。

ないことの良さが全く分からないのは、例えば私があることに焦点を当てて考えるタイプの人間だからなんだろうか。そうだったら楽なのに。私はこういうタイプ、と区切りをつけて考えることは、ある点から見たら危険な方法ではあるけれど、手っ取り早く成果を出すためなら非常に有効な方法だ。でも私は片方の可能性を失うことすらこわいから、自分はこういうタイプ、と割り切って生きることに徹することが出来ない。私はずっと失うことがこわい。ずっとこのままでいたい。

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