お見合い結婚って何?梅子
新しい5000円札の肖像画となった津田梅子。
(キャッシュレス専門の私は
いまだ現物をみていません)
津田梅子か生まれたのは、
江戸時代の終わりである1864年。
“「新撰組」による池田屋事件があった年”
現在の千葉県佐倉にあった
佐倉藩の幕臣だった
父・津田仙(せん)の勧めで、
明治4年に岩倉使節団の
女子留学生としてアメリカに留学します。
このとき、同行したのは
岩倉具視、伊藤博文ら政府の
使節団。
当時の津田梅子はまだ7歳。
5人いた女子留学生のうち、最年少でした。
まず、梅子がアメリカで見たのは、
アメリカ人女性たちの社会的な
地位が高いこと。
この体験が、女性の社会的地位向上の
ために人生をかける、
梅子の土台になったと
考えられます。
そんな梅子が帰国して
とにんく驚いたのは、
アメリカでは、
よく目にした電車の中で
男性が女性に席を
譲るシーンを
まったく見かけなかったこと。
また、互いのことを
まったく知らずに
お見合い結婚が
成立することでした。
そこで梅子は、
日本の女性の地位を
高めるため女性の教育に
力を入れようと考えます。
そして伊藤博文の紹介で、
華族女学校、現在の
学習院女子で教授として働き、
その後、
2度目の留学を果たし、
津田塾大学の前身である
私塾「女子英学塾」を設立したのでした。
それまでの女子教育は、
花嫁修行が中心だったため、
女子英学塾の教育方針は
たちまち世に広まりました。
学問としての厳しい教育は、次から次へと
脱落者が出るほどで、
梅子は鬼教師!と呼ばれます。
しかし卒業式で生徒たちに
こんなスピーチを贈っています。
『一人一人の人生の航路には
独りで立ち向かわなければならない、
そこにはそれぞれの困難と問題がある』
梅子は、30代半ばで
聾唖の才女として知られていた
ヘレン・ケラーとアメリカで会談しています
さらに、イギリスで80歳の
ナイチンゲールとも面会。
梅子が生涯の宝物としていたのは
ナイチンゲールから贈られた
花束の押し花でした。
最後にこんなお話を…
梅子は、長い留学生活で
日本語が話せなくなっていました。
人力車に乗った際、
忘れ物したことに気づき、
戻ってほしいと車夫に
かたことの日本語で
伝えたのですが
まったく通じず
困っていたところ、知り合いの
アメリカ人女性が通りかかり、
日本語の通訳をお願いした
というエピソードがあります
また、晩年まで、”鰻”と”柳”、
”罠”と”穴”の聞き取りに、
苦労したという
エピソードも残っています。
また、玄関で靴を脱ぐという
習慣も忘れてしまい、
脱ぐのが面倒だと
靴で座敷に上がったという
エピソードも残っています。