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性格について思うこと

性格って何?

皆さんこんにちは、しみみんです。いつものように僕の自己紹介記事を貼っておくので、初見の方は興味があれば合わせて読んでみてください。

今日は性格、具体的には「性格とはどういったものか」という降って湧いた疑問に答えるべく、色々考えてみたいと思います。自己分析の一環として皆さんも一緒に考えてみてください。


性格=思考の癖?

脳は部位ごとに働きが異なる

私たちの脳は部位ごとに役割分担をしていて、それぞれの部位が情報の処理や交換を迅速に行うことで私たちは物事を理解し、それをさらに詳細に分析したり、一連の思考で得られた結論を行動に反映したりすることができる。これは一般的にもよく知られた話です。飲酒やたばこ、麻薬によって脳の一部が麻痺すると、麻痺した部位に応じてその人の言動に多種多様な変化が見られます。左脳と右脳でも働きが異なっていて、左利きの人は双方をバランスよく発達させるため創造性に優れている、そんな話も聞きます。この不均一な脳の構造が人格形成に直結しているのかもしれません。

脳に関してはまだまだ分からないことばかり!

性格は偏りによって生まれる?

僕は脳科学者ではないので、今ここで誰もが納得できる結論を出すことはできません。しかし仮説として、性格とは思考の癖、情報処理パターンのテンプレのようなものであり、どの部位が発達しているか、どの部位を使い慣れているか、そういった脳内の構造上の偏りによって生み出されているものだと考えました。この偏りは環境や体調によって変化するため、人格は元より1つではなく、偏りの変動範囲内に存在する複数の人格が重なり合ったものをその人の性格として仮定している、そう表現することもできそうです。

失われた人格たち

弟の苦難と変貌

この仮説に至った理由の1つに、僕の弟の存在が挙げられます。優れた才能と努力家の気質を併せ持つ、一家の自慢の弟です。しかし、彼は3年ほど前から抑うつ症状を抱えており、昨年末までは何とか話せたものの大学を休学後に症状が悪化、筋肉で引き締まった身体は見る影もなく痩せ細り、思考力は自分の生活すら認知できないレベルにまで落ち込みました。中高時代は九州の超進学校、鹿児島ラ・サールで5本の指に入る学力を持っていた弟が、その日何時に起きたかすら覚えていないというのです。

受験勉強のストレスと周囲の過度な期待は、未来ある学生の運命を大きく歪めてしまうことも

性格の面でも、以前は誠実さが服を着て歩いているような人柄で、嘘と理不尽を何よりも嫌っていました。しかし、今となってはとても頻繁に嘘をつくようになりました。しかも前述の思考力ゆえに、2秒でバレるような噓を永遠とつくわけです。おそらくは過度のストレスによって、弟の脳の一部が機能不全に陥ってしまったのでしょう。それによって今までの思考回路が使えなくなり、構造上の偏りが変化したと考えられるのです。言い換えると、これまでの誠実な人格がこの変化によって失われた、このように解釈できそうです。

身を削る人生

自分の人生を振り返ってみると、自己認知が可能な範囲でも何度か性格が変わっています。保育園時代は人懐っこく活発で、よく外を走り回るやんちゃ坊主でした。5歳から8歳までの間はベルギーで過ごし、勉強のストレスで自己肯定感が低下しました。結果として、自信をもって人に話しかけることが難しくなり、人懐っこい僕に別れを告げました。帰国後は帰国子女いじめの影響で、外の世界に対して強い警戒心と失望感を抱くようになりました。そこでは家という安全地帯に引きこもれるように、活発な僕を殺しました。その後も強いストレス環境下では、自身の人格を本能的に切り捨てて適応してきたように思います。解決不能なストレスを克服するための最善策は、ストレス元から距離を取ることだからです。弟の例に見た人格の喪失もまた、ストレスから身を守る防衛本能の1つだと僕は考えています。

自分の中の火種を1つ1つ消していく、この世から消え去ってしまうかのような感覚です

こうして考え直してみると、自発的にアクションを起こしてくれる人格が軒並み消失しています。ストレス元から離れるということは近づくという選択肢を無くしてしまうことでもあり、その繰り返しが行きつく果ては完全な無気力だということは想像に難くありません。

まとめ

今回の話を以下にまとめてみました。皆さんはどのように考えましたか?

  • 脳の各部位の使用頻度・発達具合には人によって偏りがあり、環境や体調によっても変動する

  • その振れ幅の中に複数の人格が存在し、それらを統合したものが俗に性格と呼ばれている(仮説)

  • ポジティブな人格を切り捨てる(⇔ネガティブな人格を迎え入れる)ことでストレスに適応できるが、切り捨て続けると無気力になる

僕たちは多くのストレスを乗り越えながら歳をとっていきます。この過程で多くのポジティブな人格が失われ、能動的・革新的な若者から受動的・保守的な高齢者に僕たちの性格もまた歳をとっていくのだとしたら、、それが大人になるということなのかもしれません。そう思うと少し寂しいですね。

それでは、また。

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