リスト 私的ホラー映画ベスト・暫定版
個人的に気に入っているホラー映画のリスト。まだまだ鑑賞数が足りていないし、新しい映画は常に作られ続けられるため、今後変化する可能性はある。とはいえ、作品が追加されることはあっても削られることはないと思う。なお、数字は順位ではなく、ただの年代順。
本多猪四郎「ゴジラ」(1954年・日):今では信じられないが当時はホラーと見做されていた。というか、怪獣は本来ホラーの産物なのだが、円谷と東宝のおかげというか、せいというか、気づけばマスコット的ヴィランになってしまった。現代SFの先駆的作品でもある。
ジョージ・A・ロメロ「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968年・米):これもまた今では信じられない、鈍いゾンビ。映像を観ていると、何でこんな奴に殺されるんだ、となるが、その感覚を最後で現代批判につなげるところが妙味。現代社会の差別構造をホラーに取り込むという、今だと当たり前の技法を実践した名作。
トビー・フーパー「悪魔のいけにえ」(1974年・米):「おそ松さん」をはじめ、ネタにされ過ぎて最早ギャグ、という作品だが、ホーンテッド・プレイス、不吉な風習、狂気とスプラッタ、被差別者のリベンジ、とホラー作品の基本的技法を根付かせたという点で、モダン・ホラーの始祖「サイコ」同様に重要な作品。ホラー慣れしてないとかなり怖いらしい。
リドリー・スコット「エイリアン」(1979年・米):SFホラーの金字塔で、とにかくエイリアンの造型がいい。キモくて、怖くて、どこかクール。閉鎖空間で追い込まれる設定は、後にデスゲーム系の作品で頻出する。近未来を舞台にしつつ妊娠の恐怖という古典的素材を扱っているのも特徴。この作品にも権力による横暴というモチーフが見られる。
ジョン・カーペンター「遊星からの物体X」(1982年・米):これまたクリーチャーが悍ましい作品。「寄生獣」の元ネタと言われたりする。異星人が人になりすます設定は、50年代からあるけれど、それを一番うまく使っているのでは? 普通の人になりすましたヤバい奴という着想は日本だとサイコキラーで頻出する。
ウェス・クレイヴン「エルム街の悪夢」(1984年・米):虚実の合間を漂うような演出と、サイケデリックな映像が光る逸品。怖いっていうか、ヤバいっていうか、とにかく驚きっぱなしの作品。ひたすら画がいい。フレディは珍しく明確に弱点があるホラーアイコンなので、なんだか憎めないところがある。
デヴィット・クローネンバーグ「ザ・フライ」(1986年・米):クリーチャーの気持ち悪さに心惹かれる名作。人間が段々と蝿人間に変化していく様を克明に描き、「ジキルとハイド」のような悲哀と恐怖を漂わせる。形式としては「フランケンシュタイン」の真逆。ちょっとした失敗が雪だるま式に破滅に繋がるという悲劇方式(ハマルティアという)の現代的手本といった感じ。
ジミー・T・ムラカミ「風が吹くとき」(1986年・英):唯一のアニメーション映画。「千と千尋の神隠し」も冒頭はいいことを言い添えておく。核兵器が使われた後の生活を描き、老夫婦がトンチンカンな放射能対策を取り続ける様が恐ろしく、涙を誘う。ホラー的演出は皆無だが、明らかに視聴者を怖がらせようとしている。無知が死を招くとは怪談などによくあるが、死神役に核を抜擢することで恐怖に実感が生れている。
中田英夫「女優霊」(1995年・日):何もしない幽霊の筆頭作。Jホラーの幽霊には三つのない、よく見えない、動きが人間でない、理由がないがあるが、この作品には、更に何もしないが加わる。何もしない。だけど怖いし、不運も起きる。じゃあ、何かしてるんじゃない? それも分からない。そういうフラストレーションを恐怖に転化する作品。
ミヒャエル・ハネケ「ファニーゲーム」(1997年、墺):悪趣味度で言えば最上級で、「ホステル」より嫌味。ヒーローもののアンチであり、あらゆる作品には多寡の差こそあれ、主人公ご都合主義があるが、これは悪役ご都合主義。しかも、そいつらが全て不快で、どんどん厭な気持になる。観終わって、現実にあんな奴に遭遇したらと考えるとゾッとする。
三池崇「オーデション」(1999年、日):ジャパニーズ・スプラッタの名作にして、サイコキラーの代表作でもある。設定を外面如菩薩内心如夜叉という日本の伝統的価値観に拠りつつ、そこにスプラッタを混ぜる。特に、普通の顔して実はヤバいという作風はその後の日本サイコホラーの王道となり、明らかに狂っているというアメリカン・サイコホラーとは違う路線を進んだ(勿論、アメリカにも同じタイプの作品はある)。
黒沢清「回路」(2001年・日):「女優霊」の発展系と言うべき作品だが、こちらの幽霊は本当に何もしない。そして事件らしい事件もあまり起きず、なんか怖いなあ、厭だなあ、というムードだけがずっと漂う。言ってしまえば雰囲気映画なのだが、画の上手さで話を繋いでいくのは黒沢清の腕。この作風は弟子筋の濱口竜介に引き継がれるも、弟子の方が中身があって文芸的。師は映像の力で押していて絵画的。
白石晃士「ノロイ」(2005年・日):個人的には一番面白いモキュメンタリー。「ブレアウィッチ・プロジェクト」よりもいいと思う。Jホラーの文法を受け継ぎつつ、「リング」のようなミステリー要素を織り交ぜている。リアルっぽさの描き方が上手く、本物のドキュメンタリーのように見える。
ギレルモ・デル・トロ「パンズ・ラビリンス」(2006年・墨西米):何度目かのクリーチャーがいい作品。みんなキモくて、みんな可愛い。オチがちょっとキリスト教的というか、自己犠牲万歳なところがあるけれど、気持ちの悪い「不思議の国のアリス」という感じがとてもいい。
パスカル・ロウジェ「マーターズ」(2008年・仏加):まあ、ひたすらにグロい作品。今のところ、観た中では一番グロい。筋はよう分らんカルトの話だが、精神崩壊とグロテスクの組み合わせがいい味を出している。
ナ・ホンジン「哭声」(2016年・韓):モヤモヤ系(そんなジャンルは多分ないが)ホラーの代表作。ずっと何が起きてるのかよく分からない。いや、怪奇事件は起きているのだが、それへの処方箋が上手くいっているのか、いないのか、これで終わったのか、終わってないのか、延々と宙ぶらりんにされ続ける。ただし、解釈不可能性こそがホラーの本質とも言え、分からなさを突き詰めた作品と言える。
中村義斗「残穢」(2016年・日):日常から怖い物を発見する類の話で、結局、あらゆる場所がホラー・スポットになり得ますよ、というオチが視聴者の現実に介入しているようで怖い。ホラーシーンはちょっとやりすぎで、そんなに、ってところもあったが、ラストは壮観でゾッとした。
アンディ・ムスキエティ「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」(2017年・米):シンボルの使い方が非常にうまく、文学的技巧に溢れた作品。子供のトラウマ、勝者と敗者の格差、最適化する恐怖と他作品にあまりない要素が詰め込まれている。あと、ジョージがとても可愛い。
アリ・アスター「ヘレディタリー/継承」(2018年・米):近年では頭一つ抜けたクオリティで、とても「ミッドサマー」を作った監督とは思えない。血の因果を巡る話はホラーあるあるだが、それの扱いが最も達者な気がしている。よくよく観ていくと、反科学主義批判の面もあり、オカルト作品でそれをするのが面白い。