社会活動とは絶望に向き合うこと
活動報告ではなく近況報告という違和感
もはや行動や意識の大半が目的のもとのためになって久しく、自分の人生の近況報告という言葉には違和感を抱くようになった。
10月の社会活動家の知人の自殺以降、現場の先生の自殺未遂、新しい先生のレイプ被害、先生へのいじめ、社会活動家の友人へのリンチ、宗教を背景とした汚職事件、社会活動家の友人の息子の早すぎる急死
脳みそが拒否してかもはや思い出すことすら一苦労な出来事が、とりわけ死というものが、とても多く起きている様に感じる。
当然世界で見たら生も死も当然の様に毎日起きていることで、私の耳に入っていることはたまたまに過ぎないということはわかる。
ただいまだに簡単に受け入れられるような精神を持ち合わせてはいない。
3週間ほとんど何も食べられずに過ごした日々もあった。
そしてこれらのことを私に連絡してくれ、相談してくれ、頼ってくれ、共に近しい目的のために活動する友人たちがいるなら直接会って手をとり、抱きしめ合い、悼みを共有し、笑いながら別れる。
そんな行動をしていたところ全くいわゆる外向けの発信をサボっていた。
YouTubeやここでの活動報告をする余裕が全くなかった。
人生で初めてリソースという言葉が頭に浮かんだ。
正直まだまだ自分の時間自体は使える。決して1分1秒を大切に生きているような人間ではなく、まだ24時間のうち7時間寝るぐらいには余裕がある。
優先順位として、現場での活動を止めない、NGOの友人の精神状態をケアすることで止めさせないことが最大のものとなり、ほかのこと一切が2番目以降になっていた。そして2番目以降はほとんど忙しいと言い訳されるような状態に放置される。
とはいえ
そんな絶望があっても私は絶対に活動を辞めない。
というよりも生きていくために辞めることができないと言った方が適切な表現。
それは決して何かに対する責任感や正義感、利他の精神などという高尚な志でも、寄付や応援いただいている方に報いたいという想いからでもない。
言うまでもなく私のわがまま勝手な理想を支援してくださることには正直尊敬の念が堪えないほどに感謝と敬意を抱き続けてやまない。他人の理想に応援や支援をできるという行為はとても素敵なことだと感じている。
生そのものがそもそもかなりつらいものだと思い始めて10年を越えたイマだが、その過程の中で唯一、このいただいた生で、身体を使用してやっておきたいことが見つかっているという最大の幸福にあるからだ。
それは「地球上の人類すべてが外部環境がいかなる状態で暮らしていようと努力することができる状態」にすることだ。
もちろん努力したければという話であってサボりたければサボればいいし、逃げたければ逃げればいいと思う。
その先に笑ってられるなら。
そんなこんなですが、仕事としてHR、経理、営業をサポートしつつ、現場での活動継続に加え、インドのNGO設立やオンライン端末の導入、日本→インドの送金のコンプラ確認しつつの準備、日本での国際教育活動としての総合型選抜対策も見越した国際教育プログラム、高校生のアテンドサポート、インターン希望者の人生相談など「自分程度でも価値が出せることぐらいは」やらせていただいています。
勉強はペースダウンしてしまっていますが、エドマンドバーグのフランス革命の省察(日本語訳)を拝読しつつ、自身の活動の将来というものを観ています。
そしてヒトではなく人間として生きる温かみというものを自分以外の人間から教えてもらい、生きていたい、死にたいというこの感覚を持たないで時間を過ごすという状態をだいぶ久しぶりに抱いていた。
ニーチェやキェルケゴール、ショーペンハウアー、太宰や芥川の様な性質の人物とは触れる必要が全くない生
哲学や倫理の勉強よりも社会や経済や政治の勉強に目を向けられるようなそんな感覚の生
33年の生でそう思う出来事があるというのはずいぶんと幸運なことなのだろう。
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