「優しい人」止まりの深刻性
こんにちは。人間にはそこそこ期待しているけど、人間関係にはほとんど期待していないガキによる自我回です。例に漏れず、お手柔らかにお願いします。
純粋無垢な善意
「○○さん良い人だね。」
「○○さん優しいね。」
突然ですが、みなさんはこういう風に褒められたらどう思いますか。おそらく、素直に嬉しいと思う人が大半だと思います。ですが私は違う。いや、違くはない。全然嬉しいんだけど、その先を追ってしまうというのが正しい表現でしょうか。
私はこう思ってしまうのです。それ、言いやすいから言ってない?とか、場を繋げるための(嘘とは言わないまでも)常套句として使ってない?とか。さらには他に言うことないからそれ言ってない?なんて。
そう、情から来る純粋無垢な善意が1人の人間を押し潰しているのです。(確実に言い過ぎています糾弾してください。)そしてその善意は、言った本人にしてみれば何も悪いことではないので、この問題は永遠に顕在化されずに闇に葬られてしまうのです。
自己キショ分析
これは私自身の経験から来る仮説です。少しだけキショい自己分析を書かせてください。
私はコミュニケーションがおそらく下手です。異性と会話するときも、初めからフレンドリーにいけることは本当に稀です。誤解されないように、嫌われないようにが先行してしまい、自分本位のコミュニケーションとなってしまっています。また、嫌われないために俯瞰して見てしまうので、1歩引いたような、本心が伝わらない人間なんだと思います。私自身、これに気付くのに長い時間がかかりました。たまたま、同じ状況で悩む人の文章(noteだったかな?)を拝見したり、友達に教えてもらったりしました。こちらとしては、そう思われるのが嫌で、ありのままで喋ってみたり、積極的にコミュニケーションをとってみたりと試行を繰り返しているのですが、特に今まで効果は感じられていません。
ただ、上記のような性格は良いようにも形容できるはずです。異常に距離を詰めすぎないとか、慎重で相手のことを思いやっているとか。(特に後者は私がずっとそうだと思って少し誇りに思っていたし、そんな性格が多少好きでした。)あ、ちなみにMBTIはENFJです。
たぶん、こんな人間なので「優しい人だね」と言われてしまうのは必然でしょう。中途半端に「優しさ」を取っ払って「モテ」に走ったら失敗するのは目に見えています。
私の問題点
しかも、さらに私を責め立てると、この「優しさ」って世間一般の優しさとは違うのではないかと思うのです。正しいと思っていたものが実は違うものだった。優しくしているつもりでも、相手にとっては都合のいいだけに解釈されたり、つまらない奴という烙印を押されるのです。
もうひとつは優柔不断性だと思っています。もうここまで読んでくださった皆さまはお分かりかと思いますが、私はかなり優柔不断です。だって人生は選択の連続なんだもんと駄々を捏ねたいところですが、逆に考えれば基本的な行動(立つ、座る、寝る)に関して決断を迷うことはあまりないので、無意識下では頑張っている方なんじゃないかと自分を宥めます。例えば外食1回をとっても、お店選びからメニュー選びなど判断を毎回躊躇してしまうのです。少々大袈裟ですが。やっぱり優柔不断な人は「頼りない」印象を与えてしまうようです。目的地とか次やることとかスパッと決められた方がスマートですもんね。
そして、履き違えた「優しさ」と優柔不断性を併せ持つ人間こそ、「いい人」(つまり、「いい」としか形容できないつまらない人間)なのです。
永遠の「いい人」
解決策などありましょうか。怖いのです。「いい人」でさえなくなることが。そもそも、こういう人間はつまらない頼りない人間なので変化なんか望まないのです。俗に言う「弱者男性」ですね。変えれるなら変えていきたいし、目標としてはしばしば立てているのですが、公約を守れない政治家のように、ゴールに到達することはないのです
さあ、堂々巡りになってきました。そろそろ筆が乗らなくなってきたので終わろうと思います。とにかく「行動」のようです。変な恋愛解説Webサイトと変な自己啓発本の悪いとこどりをしたところで、次のnoteでお会いしましょう。ではまた。
☆ 本日の1曲