![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/139606434/rectangle_large_type_2_b792dda1e7043185b31d4837d68f4132.jpg?width=1200)
【主日礼拝】2024.5.5「キリストの勝利」
これは2024.5.5の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約) 出エジプト記 33章7-11節
(新約) ヨハネによる福音書 16章25-33節
【 説教まとめ 】
「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ16:33)」
本日の聖書箇所では、イエスさまが勝利の宣言をされます。
これは最後の晩餐の中で語られるイエスさまの最後の説教です。この後、イエスさまは逮捕され、翌日の朝には十字架にかけられ、埋葬されます。
しかし、復活されることによって、世に勝利されます。
イエスさまは、勝利の確信を宣言されました。その確信は、試練に耐えるために大切なものです。
イエスさまは勝利されましたが、その勝利と私たちとは、どのような関係があるでしょうか。
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
イエスさまは復活されて40日の間、弟子たちの前に姿を現されて天に昇っていかれました。その10日後に、弟子たちに霊が与えられることとなります。
イエスさまは人としてこの世にお生まれになったのですから、天に昇られたのではなく、帰っていかれました。そして、私たちと一つになってくださったのです。
イエスさまの勝利は、一つとなっている私たちの勝利でもあります。
そして、ペンテコステの日に聖霊が与えられ、たとえによらず、直接、神の御業を目の当たりにすることとなるのです。
モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
旧約聖書を見ると、荒れ野の旅の中で神と語り合うことができたのは、モーセただ一人だけでした。
金の子牛事件によって、神は民のもとを離れられました。
それは、神が堕落した民といては、彼らを滅ぼしてしまいかねないからです。そのため、カナンの地への導き手としてご自身は同行されない旨を宣言されたのです。
しかし、その神の言葉の中にもモーセは愛を感じ取り、御言葉を頼りに、神ご自身が民を導いてくださるようにとりなしをするのです。
私たちは、罪深い者です。
例えば、友人と喧嘩などをしてしまえば、怒りに捕らわれ「あいつを殺してください」とか、貪欲に駆られれば、「あれを奪ってください」とか、願ってしまいがちです。
しかし、私たちが御言葉に反すれば、裁きを受けてしまいます。御心にいたるために修正が必要となるからです。
その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
ところが、イエスさまが勝利されたことで、私たちのもとに聖霊が与えられます。そのことによって、モーセだけではなく、私たち一人ひとりが直接、天の父に願うことができるようになりました。
それは、イエスさまと一つであるあなたも、父のひとり子なのだから、自分で願うことができるということです。
そしてそれは、やがてくる聖霊が御心に従った言葉に変えてくれるからです。
あなたも、キリスト者となる前と、後では、お祈りの言葉が少し変わったのではないでしょうか。
たとえ、怒りに捕らわれたとしても、「あの友人に御心を知らせてください」とか、「私が彼を赦せるようにしてください」とか、貪欲に駆られても、「あなたの最もよいものを与えてください」とか、これまでとは異なる祈りに変えられたのではないでしょうか。
それは、聖霊によるものです。
そして、その祈りの最も大いなる恵みは、イエスさまの名によって祈ることが許されたことです。
「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りの言葉を、形式的に並べている方もおられると聞いたことがあります。
しかし、例えば、祈りを手紙に例えると、このように言われます。
【手紙⇒祈りの言葉】
宛 名 ⇒ 天の父
内 容 ⇒ 祈り求める願い
送り主 ⇒ イエス(あなた)
天の父にお手紙を出したとして、「その時に、イエスの名によって送ってよい」ということを、イエスさまが許されたということです。
それは、イエスと一つになったあなただからこそ許されるということなのです。これは、神を信じることによって得られる大いなる恵みです。
愛するわが子からの手紙であれば、天の父は大切に受け取り、その言葉の一つ一つをお大事に読まれるでしょう。
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
このとき、弟子たちは「信じることができた」と言いますが、その後、信仰を失いそうになります。そして、イエスの言葉がわからなくなり、不安に陥ってしまいます。
これは『ヨハネによる福音書』の読者の心境でもあります。
当時のキリスト者たちは、イエスの復活と聖霊降臨を信じていましたが、ローマ帝国とユダヤ人たちからの迫害によって、試練に立たされていたのです。
迫害されることは、イエスと一つになっているしるしです。イエスさまが受けられた迫害を私たちも受けることになるのです。
あなたの信仰生活を振り返ってみて、どうでしょうか。
家庭からの要求があったりしないでしょうか。
献金によるお金の負担について、何か言われることはないでしょうか。
年を重ねてくると、危ないから家でおとなしくしていてほしいと言われることはないでしょうか。
弟子たちは、命を奪われる迫害を受けました。イエスさまと一つになればなるほど、迫害を受けるのです。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
主は、「平和を与える」と言われましたが、私たちは、この主の平和とは異なる平和を求めがちになってしまいます。
その私たちに、イエスさまは「勇気を出しなさい」と言われます。
ペトロたち弟子たちは、「信じます」と答えましたが、まだまだイエスのことを知りませんでした。
イエスさまが復活されるだけでなく、聖霊が与えられるまでが、イエスさまの勝利の宣言なのです。
それは弟子たちの想像をはるかに超えた勝利です。
私たちも聞いて知っているつもりで、まだ知らない恵みがあるのではないでしょうか。
それをイエスさまと一つになって、みんなで求めていきましょう。
お祈りをします。