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【 説教04 】「しようとしていることを、するがよい」

  これは2022.4.17に、子供と大人が参加する主の復活を祝う礼拝において、私がお話したものです。

  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコによる福音書 16章1-8節( 新約聖書 97p )


【 説教 】 約15分00秒

   今日は復活のイエスさまをお祝いするときですね。みなさん、おめでとうございます。あとで、おもしろいイベントも用意してますので、楽しんで行ってくださいね。今日は、こんなに嬉しい、楽しい、おめでたい日のはずなんですけれど……

  聖書箇所は、そんなに楽しい感じではないんですよ。

  マリアたちは、「恐怖で震え上がり、正気を失っていた」と言いますよ。どうしてイエスさまが復活されて、恐怖を感じるのですか?

  大好きなイエスさまが復活されたのですよ。大いに喜ぶべきことではありませんか。マリアたちが感じた恐怖とは、何だったのか。今日は、そのことについての御心を深めていきたいと思います。

  この恐怖については書いてありません。だから、聖書にたくさん問いかけるしかありません。

  たとえば、死者が生き返ったのは、これが初めではないですよね?

  イエスさまは、ナインのやもめの息子や(ルカ7:11-17)、ヤイロの娘(ルカ8:40-42,49-56)、ラザロを生き返らせました(ヨハネ11:38-44)。
  旧約聖書では、エリヤやエリシャも子どもを生き返らせてます(列王上17:17-24、列王下4:16-37)。そのときも神を恐れたけれども、「大預言者が現れた」と、大いに喜んだんです。

  なんで今回は恐怖するんですか?

  また、マリアたちは、「だれにも何も言わなかった」と言っています。明らかに意志をもって言わなかったのです。

  なぜ、何も言わなかったのですか?

  ナインのやもめの息子のときは、何も言われないのに、ユダヤの全土だけでなく、周りの地方一帯にまで広まったのです(ルカ7:17)。
  ラザロが生き返ったときは、みんなが「ラザロを見に行こう」と集まってきたのですよ(ヨハネ12:9)。

  イエスさまの復活は、これまで生き返った人と何が違うのですか?

  子供やラザロをだれが生き返らせたのですか?

  イエスさまですよね。
  エリヤやエリシャですよね。

  つまり、今回は生き返らせる人がいないのに、復活したということなんです。ということは、どういうことですか??

  「いる」ということです。

  「イエスさまを復活させた方がおられる」ということ、その神の臨在を、マリアたちは、これまで以上に強く感じたということです。

  そして今、マリアたちは何をしようとしていましたか?

  イエスさまに油を塗りに行こうとしてますよね。

  それはどんな心を現していますか(箴言27:19、ルカ6:43-45)?

  イエスさまは、「3日後に復活するよ」といっていたのです(ルカ9:21-27,43-45、18:31-34)。けれども、今、自分たちはイエスさまに死に化粧みたいなことをしに行こうとしている。

  マリアたちは、自分たちは信じていなかったと気づいたのです。

  天の父なる神がイエスさまを復活させられたということは、イエスさまは、何を得たことになりますか?

  永遠の命を得たということですよね(ヨハネ10:17-18)。

  永遠の命があるということは、その対となる永遠の地獄もあるということです。マリアたちは、「自分たちは永遠の命を信じていなかった」ということに気づいたのです。それで、この御言葉を思い出したのです。

  体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

マタイによる福音書 10章28

  イエスさまが復活されたということは、「裁きに来られる」と、マリアたちは思ったのではないでしょうか(ヨハネ12:48)。

  「信じていなかった自分たちはゲヘナに投げ込まれる」、「ガリラヤに雲に乗って来るんじゃない」、「そんなことが本当であってほしくない」。だから正気を失うほど震え上がり、だれにも何も言わなかったのではないでしょうか。

  さあ、そのマリアが感じた恐怖とは、何なんでしょうか?

 主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることが分別。

箴言 9章10節


   知恵とは、イエスさまのことです(箴言8:17 = ヨハネ14:21)。マリアは、この恐怖をもってイエスさまを初めて知ったのです。

  今までは知らなかったのですか?

  いいえ、今までも知っていたのです。けれども、今までとは全然違うことを知ったのです。

  1ヶ月ほど前に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリント12:3)」というお話をされていたことを憶えていますか。そのとき、イエスさまとの関係は、どのような関係であると言われたか覚えていますか。

  「個人的な関係だよ」と言われたのです。

  また、先週のお話では、「ペトロが個人的にイエスさまから問われて、『あなたはメシアです』と信仰を告白したから、主は個人的に御国の姿を現してくださった」と(マルコ8:27-30、9:2-8)、お話しされましたよね。

  過越の食事のとき、イエスさまは、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と、急に言い出します(マタイ26:21)。そのときに、弟子たちはどうしましたか?

  「まさか私のことでは」、「私のことでは」と代わる代わる言い始めました。

  私たちは、この弟子たちのように御言葉を、聖書を、自分から遠いものとしてはなりません。

  イエスさまは、「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい(ルカ12:36)」と言われます。これは終わりの日の話をしています。けれども、「それがいつかがわからないから、常にかまえておきなさい」と言われているんです。

  「イエスさまは、ユダのこと言ってるんだな」と、ユダと自分とを切り離して聞くと、主のメッセージを受け取ることは難しくなります(ミカ6:8、ルカ18:19)。だから私たちも、日々の出来事や言葉に対して「それは私に言われていることですか」と、個人的に尋ね求めていく必要があります。

  ユダはイエスさまに、「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われ、ユダは、「先生、まさか私のことでは」と口をはさんで言います(マタイ26:23-25)。

  恐怖の言葉を聞いたユダも、今日のお話の中のマリアたちと同じような状況にあったのではないでしょうか?

  イエスさまは、浸したパン切れをユダに渡して「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われます(ヨハネ13:27)。それをユダがどのように受け取ったのかはわかりません。

  けれども、私たちがイエスさまの前で、主の前で、『しようとしていること』とは、何ですか?

  悔い改めですよね。

  イエスさまはユダに、「あなたは罪を告白して、神の方に向き直る神の子だよね」と、敬意を表して浸したパン切れを渡したんです。けれども、ユダは誤った選択をしました(使徒1:16-20)。

  このユダの話を見ていると、子供のときを思い出します。

  お母さんに、「ゲームしたい」、「テレビ見たい」、「漫画読みたい」と、私は言いました。するとお母さんは、「先に宿題をしなさい。30分くらいで終わるんでしょ。パッとやって後からゆっくり楽しめばいいじゃない」と言います。

  でも、私は「でも…でも…」と、もじもじするわけです。

  そうしたらお母さんが、「はぁ~、好きにしなさい」と言いました。私は、「やったテレビ見れる」と、テレビ点けて見ようとすると、お母さんから「勉強しろ。そっちじゃない」と怒鳴られました。

  私も反抗して、「えー、好きにしていいって言ったのに」と、キッとにらむのです。そして、お母さんとバッと目が合うと、「あんた、私が言ってることわかってないみたいね」と、ずんずんずんずんと近づいて来るのです。「うわぁー」と叫んで、テレビ消して部屋に逃げました。「ここまで来れば大丈夫かな」と思ったら、カチャッとドアが開いて部屋まで追いかけてきました。

  当然ですよね、自分の家ですもの。

  私は「えー、どうすればいいんだろう」と、とりあえず椅子に座るんです。そして横目でチラッと見ると、お母さんが腕を組んで椅子の横に立ってるんです。それでスタンドの電気を点けて、ノート開いて、鉛筆をもつ。

  すると、「よし」と声が聞こえてきました。

  私は、「これが正解なんだ」と、わかりました。けれども全然、納得してないんです。もやもやするのです。抵抗して、言わなくてもいい余計なこと言うんですよ、「お母さんがいると集中できない」とか。「でも、いないとやらないでしょ」、「はい」としか言えない。

  この恐ろしい状況を脱する方法は、1つしかありません。

  それは私が、良い子になることです。そして私は、『主は私の右におられる』ということがよくわかるようになるのです。

  これがはじまりの恐怖です。

  これが清めですよ、みなさん。

  悪者にとって主は、焼き尽くす火ですから(申命4:24)。十戒の『父母を敬いなさい』というのは、こういうことです(出エジプト20:12)。

  あなた以上にあなたのことを思ってくださるお父さん、お母さんのことを大切にしてくださいね。私たちは、いきなり天の見えない神のもとに思いを寄せることは、できないとは言わないけれども、ちょっと難しいんです。

  だから、旧約聖書では、「律法を、目に見えるルールをまず守りなさい」と言われているのです。「見えるお父さん、お母さんの働きを通して、見えない天のお父さんの働きを見なさい」ということです(ヨハネ3:12)。

  私の言っていること、ちょっとはわかっていただけます(ルカ8:8)。

  そうやって主への恐怖を知って、私たちは何を知りますか?

  主は、アブラハムに約束されました。「私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす」と(創世22:17)。

  空の星については、クリスマスにお話ししましたよね。

  ダニエル書で明かされているように(ダニエル12:3)、死に至るまで忠実であった者が(黙示録2:10)、主と永遠に結びついて輝く姿を、主は空をキャンバスに描かれました(創世1:14-18)。

  海辺の砂は、エレミヤ書で明かしています。

 私は砂を境として海に置いた。越えられない永遠の定めとして。海が荒れ狂っても、勝つことはなく とどろいても、それを越えることはできない。

エレミヤ書 5章22節

  聖書では、海は息をもたない悪霊どもの住処だと言っています(イザヤ27:1、ハバクク1:14、黙示録13:1,11)。

  悪霊は恐ろしいものかもしれない。けれども、主はそれ以上に力をもった恐るべき方です。そのことを知ることによって、海の波が押し寄せても、悪霊が襲いかかろうとも、「お前なんか怖くない。私はもっと恐るべき方を知っている」と言えるようになります。

  そして悪霊に対しては「ここから入ってくるな」と砦となり、悪霊の誘惑に流れる者に、「そっちに行ってはいけない。向きを変えて戻りなさい」と、主が盾であるように(申命31:7、詩18:2-4)、私たちも兄弟たちの盾となります(ルカ6:40)。

  そうして、「砂浜でせき止めるのが、あなたの使命だよ」と、主は言われるのです。

   この中でも、「何でかわからないけど、主のことが怖いな」と、漠然と感じたことがある人もいると思います。「まだ、ない」という人は、「このことか」と、喜びに満たされるときが来ますから、安心してください。

  そして主への恐れは、恐怖では終わらないのです。

  恐怖の恐れは、敬う畏れに変わり(マタイ14:25-29)、成長させてくださった感謝と讃える思いが親しみになります(ルカ22:31-32 → Ⅰペトロ2:11-17)。

  そのとき(Ⅰペトロ3:21)、主は、「あなたは私の友である」と言われるのです(ヨハネ15:14-17)。その招き、主の復活を信じるときに、心にどのようなことが現れるのか?

  それは、「主への恐怖を知り、そこから始まるんだよ」と、今日の話は教えてくれるのです。

  ですから、聖書を読む前、礼拝の前奏のとき、日々の出来事に思いを巡らせるときなどに、たとえば、こういう風に祈ってください。

  「主よ、教えてください。私の知っていることではなくて、私の知らないことを教えてください」と。

  すると、主の言葉を聞く準備ができます。

  あなたがより強く主と結びついて、天の星、海辺の砂となりますように。

  お祈りをします。


【 お祈り 】
  天の愛するお父さん、今日も多くの収穫を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。

  主を知る朝ごとに私たちを新しくしてくださることに、いつも感謝しています。主を知る喜び以上に喜びはありません。どうか、この喜びが私たちを通して、私たちの周りに、そして世界に広がりますように。

  私たちにあなたの律法を守らせてください。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエス様の御名によってお祈りいたします。

  アーメン。

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