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【 礼拝ノート 】敵であったときでさえ

  これは2023.11.19に、子どもと大人が参加する礼拝で、教会員のK.Kさんをゲストとしてお招きして、お話されたものを書き留めて、書き起こしたものです。

【 聖書箇所 】

  それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

ローマの信徒への手紙 5章9-11節

【 説教内容 】

  前回、2019年に私は、お話をする機会を与えられてお話しました。そのときは、病気で亡くなった弟がいるのですが、この弟が主と結ばれて安らかに亡くなった話をしました。

  すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

マタイによる福音書 9章2節

  闘病生活を送っていた弟は、このイエスさまの言葉を信じて洗礼を受けました。そして、死を迎えるときも恐れることなく亡くなりました。

  こういった話をすると、話を聞いてくださった方から、「あなた自身のお話は、どのようなものがあるのですか?」という質問を受けました。

  「確かに、そのとおりだな」と思って、今日は、私自身の話をしにきました。

  弟はイエスさまを信じて洗礼を受けたことを、私の父母はとても喜びました。そして、「あなたはどうするの?」と尋ねられました。

  私も子どもの頃から礼拝に参加していて、教会の活動にもよく参加していたのですが、「罪を赦される」ということが、ピンときていませんでした。

  だから、「どうする」と言われても、「どうしようか」というのが、正直な心境で、そのときは、結局なにもしませんでした。

  それから時は流れて、東北で仕事をしていたときに、その地元の教会に通っていました。

  あるとき、牧師が「自分は神さまから如何に救われたか」というお話をされたときに、みんなが感銘を受けている姿を見て、「自分はこの人たちとは違うな」と思いながら眺めていました。

  そんな中、「今日のお話を聞いて、信じたいと思った人は手をあげてくれませんか。あとで少しお話ししましょう」と呼びかけられました。

  私も一歩を踏み出すために手をあげてみました。

  しかし、子どもの頃から長い間、礼拝に参加していたのに、今さら大丈夫なのかなという不安もあって、手を下げようとしました。

  すると、「今日はじめて来た方だけでなくて、これまでも通っていた方でもいいんですよ」と呼びかけられ、この言葉に励ましを受けて、牧師と話をしました。

  その夜は、教えてもらった言葉、「罪を赦してくださった主イエスを信じます」と祈りました。

  けれども、あいかわらず、” 罪の赦し ” というものが、どういうものかわかりませんでした。でも、それからだんだんとわかるようになってきたのです。

  私自身、正しいこと、良いことをすると、受け入れられたい、認められたいという気持ちがあります。それが受け入れられないと、カチンと怒りにかられる自分がいることに気づくようになってきたのです。

  私は、「これが罪の力なのかな」と思いました。

  ほかにも、これまでは自分の力でできることはがんばって、本当に困ったときには神さまの力を借りようというような思いで、祈りを捧げていました。

  私は、「こういったことが自己中心的であるということなのかな」と思いました。

  これまで、いろんなことに取り組む際、私はとても大きな不安を抱えていました。

  実際は、自分にとって好ましいことができても、それは主の導きであるし、悪いことがあっても、主はそれを用いてくださいます。

  そのことがわかってきたとき、不安や恐れが少しなくなってきました。

  自分の中の黒いものは、完全にはなくなりませんが、主はそれさえも用いてくださいます。その信頼し、安心する心を、主は与えてくださいました。

  敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

ローマの信徒への手紙 5章10節

  この ” 敵 ” とは、教会に来ていない人たちのことをいっているのだろうと、私は思っていました。

  しかし、それは神に背を向けていた自分のことで、その自分は、自らの力で神さまの方を向くことはできませんでした。

  「はじめての方でなくても、手をあげていいんですよ」という言葉によって励まされ、招かれて、今、私は、主を知るということがなんとなくわかるようになってきました。

  イエスさまは、その死をもって、神さまの方から働きかけて、私との仲直りの道を備えてくださったのだなと、今ではわかります。

  それでは、お祈りをします。


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